【歴史】井伊直弼警備した駕籠かきや荷物持ちはフリーランスだった [11/12/17] at BIZPLUS
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1:@@@ハリケーン@@@φ ★
11/12/17 16:56:20.52
安政七年(1860)三月三日。大老井伊直弼の登城を護衛する供廻りの徒士(上士で16名、
他に足軽、馬夫など軽輩の者と合わせ総勢60名)が襲撃された。水戸脱藩浪士を中心とし
たグループが、大老暗殺という非常手段に出たのだ。桜田門外の変である。暗殺はなぜ
成功したのか。作家・井沢元彦氏が解説する。

* * *
この時代、大名行列の駕籠かきや荷物持ちをつとめる仲間は、現代風に言えばすべて「
フリーランス」であった。つまり、藩に正式雇用されているのではなく、仕事があるたび
に雇われて、その大名の紋のついた仲間装束を着て御用をつとめていた。

なぜ、そんな体制になっていたかといえば、言うまでもなく、その方が人件費の節約に
なるからだ。こういうのを「渡り仲間」という。日頃は大名屋敷の仲間部屋でバクチを
やったり酒をくらったりしていた。当然彼等は侍(藩士)と違って、主君に対する忠誠心
はない。

だから、ピストルが射ち込まれた時、彼等はクモの子を散らすように逃げてしまった。
桜田門はすぐそこだから、井伊が重傷を負っていたとはいえ、彼等が逃げずに駕籠をかつ
いだまま門内へ逃げ込んだら、城内には番士もいるし医者もいる。何とかなったかもしれない。

しかし、駕籠はその場に置き去りにされる形となった。ピストルが射たれたのを合図に
同志が一斉に斬り込んだ。ここで井伊にとっての、さらなる不幸、襲撃側の幸運が起こった。

フリーランスの仲間が逃げたのは仕方ないが、代々禄をもらっている藩士のうち七人が
そのまま何の抵抗もせずに逃げたのである。この七人は後に士道不覚悟のゆえをもって、
切腹ではなく斬罪に処せられている。

もっとも、彼等にも言い分はあっただろう。屋敷が目と鼻の先なのだから、応援を求めに
行ったということも充分に有り得る。それは駕籠脇に残った者の命令だったかもしれない
。しかし、それを確かめる術はなかった。

駕籠脇に残った者はすべて闘死したからだ。

※週刊ポスト2011年12月23日号

ソース
URLリンク(zasshi.news.yahoo.co.jp)


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