【話題】「飲んべえの父はすぐ死んだ」 製鉄の町・北九州で育った舛添知事の貧困時代 at NEWSPLUS
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1:銀翹散 ★
16/05/26 02:54:47.82 CAP_USER9.net
舛添要一氏 (c)朝日新聞社
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 公私混同疑惑の渦中にありながら「私はどんな買い物をしても領収書をとる」と豪語した舛添要一東京都知事(67)。
東大法学部を卒業し、パリ大学でも学んだ華麗なる経歴と、その“ドケチ”ぶりにはあまりにもギャップがある。
 舛添氏の公式サイトの経歴には「舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系」とある。だが、実は幼少期には貧困を経験していた。
 舛添氏の故郷は製鉄の町として知られた福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)。
父は実業家だったというが、舛添氏が幼いころには零落し、家は小さな青果店を営んでいた。
 このころの様子を舛添氏自身が語ることはあまりない。
だが、「売れっ子国際政治学者」として多くのテレビ番組に出演していた当時の雑誌には、小中高時代の友人の証言として、こんな談話が掲載されている。
<「舛添は八百屋の息子だよ。それも川っぷちの他人の土間先借りて野菜をパラパラッと並べたようなヤサイヤだった。貧乏? あいつが子供の頃、ポケットから金出して何か買ったの見たことないね」>(「アエラ」1990年6月5日号)
 中高時代まではおとなしく、目立たない性格。中学2年のときに父親が亡くなり、母親と姉4人とともに勉強部屋もないようなバラック小屋に住み、夜遅くまで野菜のリヤカーを引いていたという。前出の記事の中で、舛添氏は父親についてこう語っている。
<「そう。会社の大きいの持ってたけど、だんだん落ちぶれて。俺の頃は最悪、ただの飲ン兵衛だった。火事になって病気になって、すぐ死んだ」>
 舛添氏をよく知る関係者がこう語る。
「幼少期の舛添氏は他の子どもが持っているようなおもちゃを買ってもらえなかった。いつも一本の『肥後守』(ナイフ)を持っていて、それで木を削って、おもちゃを自作していたという。舛添氏は今もナイフの収集が趣味だといいますが、このときの原体験が影響しているのかもしれません」
 この関係者に対し、舛添氏は以前、自らの頭を指さし、「自分はここ(頭)を使うしかなかったんだよ」と語ったという。
その言葉どおり、苦労人は勉学一本でのし上がった。
 東大法学部を卒業後は助手として学者の道を歩み始めるが、73年に独断で渡仏し、パリ大学やジュネーブ高等国際政治研究所に客員研究員として5年間留学。
79年に帰国後は東大助教授となり、6カ国語を操る気鋭の国際政治学者としてメディアで注目されるようになる。
89年には母校を「さらば東大のアホどもよ」などと激しく批判し、辞表を提出。在野の学者に転じた。教授職の後継者争いに敗れたことが遠因だった、との見方もある。
「故郷でも東大でもはぐれ者だった舛添氏にとって、パリやロンドンなどのヨーロッパこそが精神的な故郷。豪華な視察旅行でそこを訪れることこそ、“故郷に錦を飾る”行為だったのかもしれません」(前出の関係者)
 華麗な経歴に隠された苦節の時代が、特異な金銭感覚の原点なのだろうか。
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