【宗教】「天皇制が性 ..
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336:名無しさん@1周年
19/03/14 01:01:41.47 rKKmXJe00.net
>>760 >>761 >>762 >>763 >>764 >>765 >>766
うらじ@uraji
2018年4月5日
殴り合う貴族たちって本に平安貴族はんなりしたイメージに反して非常に暴力的で取っ組み合いの喧嘩も多く
刑事罰もないから従者と一緒に集団暴行や拉致強姦などやりたい放題だったと書いてあってビックリした記憶
があるんですけど、こんな風に袖まくりして暴れまわってたんですね。
キール@kir_imperial
2017年7月17日
殴打、拉致、監禁、虐待、殺人、強姦、集団リンチと、なんでもござれのDQNな平安貴族達が
「何あいつら・・野蛮すぎでしょ・・」っとドン引きした当時の武士達の子や孫とかが、鎌倉武士じゃけんのう。
さんぼーほさ@sanbouhosa
2016年12月29日
平安貴族が変態な一覧
・かわいい幼女を見つけると自分好みに育てようとする
・基本的にうわさを聞いただけでも恋煩いしてもじもじする
・噂だけを頼りに夜這いをかける
・割と強姦じみてるし待女にも手をかける
・宮中で男同士でやるのがブームになる
・僧侶がショタをほめてたら肉体関係あり
キール@kir_imperial
2016年3月28日
「源氏物語」っていうか、あの時代の平安貴族達って、ぶっちゃけ中国共産党の不良子弟みた
いなもんで、基本やりたい放題で、強姦陵辱近親相姦NTRなんでもありで、おまけに暴力沙汰
もしょっちゅうで、優雅で雅なようで、その実、血とエロスとバイオレンス溢れる世界だったからね。

337:名無しさん@1周年
19/03/14 01:01:52.77 rKKmXJe00.net
>>770 >>771 >>772 >>773 >>774 >>775 >>776
URLリンク(ja.wikipedia.org)藤原惟通
惟通が没した後も、彼の母(式部の継母にあたる)と妻子は帰京せずに常陸国にとどまった。これは常陸に惟通とその一族が
所有する荘園があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の未亡人が平為幹に強姦
されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は逮捕されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。
つじどり【辻捕り・辻取り】
路上で好きな婦人を捕らえ、妻にしたこと。中世、略奪婚の一種として実際に行われたらしい。
「 −とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるを取る事/御伽草子・物臭太郎」
nightflighttw@nightflighttw
2016年1月2日
奇習! 封印された平安貴族たちの蛮行 ― “恍惚”の赤ん坊レイプ
脱税レイヤー風呂屋さん@557dg4
2018年2月14日
光源氏がヤリチンなのに、何故人格者扱いされてるか?というと、平安時代の女は男を待つしかない存在であり…
云々以前に、小右記によると平安貴族はレイプが趣味であり、適当な平民を襲ったり、宮中強姦の為に部下を貸し
借りするとかザラだったらしく、そりゃヤリ捨てで済ませる男は聖人だよねっていう
猫太@nekotabarusu
2016年1月24日
平安貴族とかレイプ当たり前みたいな世の中だったらしいからな
ドント@dontbetrue
2013年11月21日
レイプ犯平安貴族「いと犯し」
clavi@clavi_tw
2014年5月27日
@hinata_honjo 王朝貴族文化の華やかさの陰で、貴族は殴り合いの喧嘩をし、強姦し、通りには糞便と死体が溢れていたのが平安時代
の姿のようです。臭かったでしょうねえ。

338:名無しさん@1周年
19/03/14 01:02:02.98 rKKmXJe00.net
>>780 >>781 >>782 >>783 >>784 >>785 >>7


339:86 水無月尽@minaduki__jin 2012年12月22日 平安貴族の場合も、女側の親が許していないのに、あるいは決まった夫の正妻になっているのに、 勝手に男に侵入された、という話はたくさんある。女側に親がいなかったり、侵入・強姦した男が権力者だったりしたら、 女は泣き寝入り。侵入を受けたり噂が立てば女は「傷もの」。決して「おおらか」ではない



340:名無しさん@1周年
19/03/14 01:02:13.09 rKKmXJe00.net
>>790 >>791 >>792 >>793 >>794 >>795 >>796
中国をお手本とした結果、「女三界に家無し」なんていう蛮族の因習が作られた
「女三界に家無し」
《「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと》女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。
【日中】安倍首相「漢字や仏教、社会制度、都市づくりは 中国から日本に伝わった」「中国は長く日本のお手本」北京のフォーラムで★2
スレリンク(newsplus板)
「三従四徳」
昔の中国の女性への教え。
「三従」は従うべき三つのことで、幼い時は父親に従い、嫁いだ後には夫に従い、年老いたら子どもに従うべきであるということ。
「四徳」はいつもの生活で心がけるべき四つのことで、女性としての節操を守ることをいう婦徳、言葉遣いをいう婦言、身だしなみをいう婦容、家事をいう婦功のこと。

341:名無しさん@1周年
19/03/14 01:02:25.78 rKKmXJe00.net
>>800 >>801 >>802 >>803 >>804 >>805 >>806
聖徳太子の憲法17条も論語の学而や礼記のコピーとされている
URLリンク(ja.wikipedia.org)学而
有子曰:「禮之用,和爲貴;先王之道,斯爲美;小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
(有子曰く「礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す、小大これに由るも行なわれざる所あり。
和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦行なわるべからず。」)

342:名無しさん@1周年
19/03/14 01:02:38.49 rKKmXJe00.net
>>810 >>811 >>812 >>813 >>814 >>815 >>816
『中庸』は中華主義者がしばしば引用する
日本中華主義・日本型華夷思想
URLリンク(ja.wikipedia.org)中華思想
江戸期日本の中華思想
明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の
天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こ
そは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせ
ず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められてい
る現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の
江戸時代の儒学者山鹿素行も著書『中朝事実』の中で同様の主張をした。また、国学
者本居宣長も日本外交史を扱った歴史書『馭戒慨言』おいて、世界の国々は日神の子



343:キである天皇に朝貢してその暦を奉じるのが正しい姿であり中国皇帝は「戎王」に過 ぎないとして、中国中心の華夷秩序を反転させて日本中心の華夷秩序をあるべき姿と して描いている[12]。これが後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の 尊王攘夷論に結びつくこととなる。 太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍 部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝) 不滅を唱えるに至ったのも、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという[13]。



344:名無しさん@1周年
19/03/14 01:02:42.44 uRh+T+mj0.net
天皇云々言う前に公明党の前で政教分離叫んでこいつーのw

345:名無しさん@1周年
19/03/14 01:02:50.95 rKKmXJe00.net
>>820 >>821 >>822 >>823 >>824 >>825 >>826
明治天皇は儒教的専制君主となるよう積極的に動いていた時期があった(大久保の暗殺後に政治空白が生まれ宮中での天皇親政運動が強まる)
明治天皇とその側近である侍補グループの天皇親政運動は五箇条の御誓文や維新革命後の政治体制に反する存在となった為に伊藤博文が介入した。最終的に軍の支持を受けた伊藤
の封殺案に抵抗する術はなく、侍補は廃された。宮中グループはその後も教学聖旨によって儒教君主化を企んだが伊藤博文はこれも頓挫させた
「〔明治13年〕11月3日(東京)天皇誕生日。この国の人民がその君主に寄せる関心の程度が低い有様をみることは情けない。
警察の力で,家々に国旗を立てさせねばならないのだ。自発的にやるものは、ごく少数だろう」(エルヴィン・フォン・ベルツの日記より)
憲法の制定後は明治天皇の権力はさらに制限され、親政の希望は失われたが、伊藤博文は傀儡となった天皇の権威を最大限利用すべく動き
最終的には西欧におけるキリスト教の役割となることを期待し、操り人形の前提で天皇崇拝を強化した
明治天皇の信任が厚かった宮中グループも、朝鮮朱子学による天皇儒教権威の強化、儒教的・絶対的な天皇中心主義が教育勅語に組み入れられたことで満足(侍補達の権威アップ)し、その後はおとなしくなった
https ://ja.wikipedia.org/wiki/明治天皇
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省
の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/機務六条
宮中側は明治天皇


346:ェ儒教に基づいた東洋的な専制君主として「天皇親政」を行うべきであると主張し、明治天皇への帝王教育もその路線で行ってきた。これは将来的には天皇を西洋的な立憲君主として近代国家の中枢に据えようとす る太政官の方針と矛盾したものであった。このため、岩倉や伊藤らは侍補を廃止して親政路線を停止しようと図ったが、明治天皇自身が元田永孚・佐々木高行ら侍補に心を寄せて彼らを私的なブレーンとして遇し、彼らが期待する君主像を実現させようと試みた。 1879年(明治12年)3月10日、明治天皇が「勤倹の聖旨」を公布して政府の財政路線を批判し、続いて元田に「教学聖旨」を執筆させて教育政策を批判した。伊藤らは天皇と宮中側の関係を改めさせようとしたが、急速に立憲制が確立することで 公家出身の門地に依存してきた自分の地位が危うくなることを危惧した三条や岩倉は、元田や佐々木らの宮中側勢力を完全に抑えることには消極的で、大隈財政末期の外債発行問題などでは宮中側と連携して太政官側を動かそうとする動きも見せたのである。 https ://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤博文 お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。 生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。



347:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:00.70 QpcjHSy40.net
鮮人が必死にコピペ荒らししてんのかw

348:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:02.98 rKKmXJe00.net
>>830 >>831 >>832 >>833 >>834 >>835 >>836
近世の検地は税収を下げないために大名が必死だったから、農民が他の職業に移るのは難しかったはずだ
URLリンク(ja.wikipedia.org)元禄検地
田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も検地帳に登録、隠田を摘発し、開墾可能な土地は山林や原野、
荒れ地や湖沼地帯をも検地して、台帳に記入して石盛を高めるという方法で行った。武蔵国世田谷の村々では石盛
が2-3倍に増加するなど[1]検地は峻烈なものであったが、生産技術が進歩したことによる生産量の増加が石高の大幅
な上昇をもたらしたのであった。

349:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:06.25 RectgpAv0.net
宣教師が自由奔放な日本人女性を批判的に報告してるくらいだ。
『フロイスの日本覚書』中公新書
「ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の女性は、夫に知らさず、自由に行きたいところに行く。」
「ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔が犯されないことである。日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚する資格も失いはしない。」
『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス著 岡田章雄訳注
「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける。」(p48)
「日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。…
日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。」(p49)
「ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。」(p56)

350:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:14.74 rKKmXJe00.net
>>840 >>841 >>842 >>843 >>844 >>845 >>846
URLリンク(ja.wikipedia.org)検地帳
検地帳は同一内容のものが2冊作成され、検地役人と村役人がそれぞれに連署して全ての綴じ目に奉行の
割印を押印した上で領主側と村方に1冊ずつ保管した。名請人の記載方法には大きく分けて2つあり、単純
に年貢・諸役の負担義務者を記したものと「○分(○家抱)・×作」と併記して負担義務者と実際の耕作者
に分けて記したものがある。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地
に緊縛されることになる。後者は実際の耕作者名を記載することで所有するだけで耕作を行わない地主層へ
の牽制の意味も含まれていた。これは逆に考えれば、当時の村内部で重層的な階層が形成されていたことを
示しているとみることも可能である。

351:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:25.59 rKKmXJe00.net
>>850 >>851 >>852 >>853 >>854 >>855 >>856
士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
URLリンク(kotobank.jp)士・農工商・穢多非人-1542795
農民
武士身分の下に平民身分として農工商があった。農民を上位としたのは儒者の思想上のことであって、実際は農工商は並列した身分的存在であった。
通常農民身分で特定条件を備えている者は百姓とよばれ、年貢負担者として、平民身分のなかで武士からもっとも厳しい支配・統制を受けた。農民
の場合も身分内部の身分的差異は甚だしく、名主(なぬし)(地方により庄屋(しょうや)、肝煎(きもいり)などと称した)、組頭(くみがしら)、百姓代
(ひゃくしょうだい)の地方三役(じかたさんやく)(村方三役(むらかたさんやく))をはじめとする石高所持者の本百姓(ほんびゃくしょう)は一人前の農民
であったが、無高の水呑(みずのみ)百姓は村寄合(むらよりあい)に参加する権利がなかった。水呑百姓の下には、地方により、有力な本百姓に隷属し、
独立した生計を営めない名子(なご)、門屋(かどや)、家抱(けほう)、被官(ひかん)などとよばれる農民があり、さらに隷属性の強い譜代(地方によって
は庭子(にわこ)、買子(かいこ)と称した)も存在した。無高の水呑百姓以下は厳密には百姓ではない。士農工商の農民イコール百姓ではないのである。
美濃(みの)(岐阜県)大垣藩では、庇(ひさし)・濡縁(ぬれえん)・破風板(はふいた)・釣天井(つりてんじょう)および3尺以上の座敷口の造作、
衛門・兵衛・太郎・太夫(たゆう)のついた命名は頭(か


352:しら)百姓(本百姓)には許されたが、下(しも)百姓(水呑百姓)には許されなかった。また、 下百姓は頭百姓の宅内へ履き物を履いて入ることも認められなかった。[成澤榮壽]



353:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:35.07 rKKmXJe00.net
>>860 >>861 >>862 >>863 >>864 >>865 >>866
士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
URLリンク(kotobank.jp)士・農工商・穢多非人-1542795
武士
武士は支配身分として武力を独占し、政務に携わり、特権を享受したが、この身分内部における身分的構成は複雑多岐にわたり、
差別的な規制は厳格であった。たとえば、同じ大名であっても、御三家(ごさんけ)および金沢の前田家、大身外様(たいしんとざま)、
家門(かもん)・門閥譜代(もんばつふだい)、譜代城持格(しろもちかく)以上、中堅譜代、小身(しょうしん)外様、小身譜代によって
江戸城中の詰所(つめしょ)の格式を異にした。
 家臣団については、たとえば広島藩では、1868年(慶応4)、最上位の長柄(ながえ)以上の者は100人で、家老以下、年寄、
番頭(ばんがしら)、寄合、旗奉行(はたぶぎょう)、用人、大小姓組頭(おおこしょうくみがしら)、中小姓頭、大目付などがこれに属した。
次が布衣(ほい)以上の者で87人、留守居(るすい)、郡(こおり)奉行、町奉行、勘定奉行、普請(ふしん)奉行、歩行頭(おかちがしら)な
どがこれに属し、その下に馬持(うまもち)以上305人があり、さらにその下に御前御用(おんまえごよう)(御直御用(おじきごよう))23人、
御序(おついで)の御前御用39人があった。そのまた下に役方(やくかた)291人、中小姓228人、儒医組(じゅいぐみ)106人があって、以上
の1179人が家中(かちゅう)(侍士(じし))であった。家中の下には御前(藩主)に直接応答できない歩行(おかち)(徒士)があり、これ
には左右小姓組に属する者70人、外様歩行組に属する者257人、他の諸役方配属の者453人、計780人がいた。ここまでが士分(しぶん)
で、その下に小人(こおひと)とよばれる足軽(あしがる)がいて、これは卒(そつ)身分であり、およそ2000人、諸役方の下役に従事した。
 こうした身分的差異は日常生活を隅々まで規制した。そのことについて、福沢諭吉は、その著『旧藩情』において、出身藩の豊前
(ぶぜん)中津藩では、足軽は上級士族に対して雨中でも往来で出会ったときには下駄(げた)を脱いで路傍に平伏し、足軽以上の小役人
も大身に対して同様にするのが作法になっていたと述べている。[成澤榮壽]

354:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:43.05 EYBtBCdJ0.net
日本で自我を確立できない人は、他国に行った方が精神の健康のためにいいと思うよ

355:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:49.03 rKKmXJe00.net
>>870 >>871 >>872 >>873 >>874 >>875 >>876
士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
URLリンク(kotobank.jp)士・農工商・穢多非人-1542795
賤民
士・農工商の4身分の下に、穢多・非人を主要部分とする賤民(せんみん)身分があった。穢多は斃牛馬(へいぎゅうば)処理、皮革の加工、
農業や雑業的手工業などを行い、非人は主として乞食(こじき)をしたが、加賀藩のように、非人の物乞いを禁じ、彼らに雑業的手工業や
日雇労働に従事させ、新田開発を奨


356:励した藩もあった。また、江戸周辺では、斃牛馬処理権をもつ穢多のもとで、実際の仕事は主として 非人がやらされた所もあった。多くの地方では、穢多は、賦役として、警察・刑場関係の下役人足に従事させられ、百姓一揆(いっき)など に際しては、弾圧の手先に使われることもあった。しかし江戸では、刑場の、とくにむごい下役には非人が従事させられた。また、加賀藩 では、同藩の賤民の中核的存在であった藤内(とうない)が警察関係の下役人足に従事、穢多はまったくこれを行わなかった。非人のなか には「足洗い」といって平民に戻れる者もあったが、穢多はそれが認められなかった。穢多・非人その他の賤民は一般庶民との交際を禁 じられるなど、厳しい差別を受けた。彼らに対する上位身分の人々による蔑視(べっし)と迫害は、彼らがむごい賦役に従事させられるこ とによって助長された。



357:名無しさん@1周年
19/03/14 01:03:57.78 /Xmwr3b30.net
>>292
バプテストは米国ではスタンダードなプロテスタント。
それは浄土真宗な首相やべーとかいうのと同じレベルだ。
ちなみにトランプさんは長老派教会という一派。数はそこまで多くないが、こっちもメジャー教団。
オバマは救済神学派と呼ばれる、社会正義の実現のための境界という理念を掲げる、マイノリティに人気のある教団

358:名無しさん@1周年
19/03/14 01:04:00.74 rKKmXJe00.net
>>880 >>881 >>882 >>883 >>884 >>885 >>886
士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
URLリンク(kotobank.jp)士・農工商・穢多非人-1542795
賤民
 このような封建的身分は明治維新の改革で廃止された(四民平等)。しかしあらたに華族・士族・(卒族)・平民
という身分関係がつくられ、その根本的廃止は第二次世界大戦後を待たなければならなかった。とりわけ旧賤民身分、
とくに旧穢多身分であった人々に対する差別は、その後も厳しく存在した。身分制度が再編成されたのは1869年(明治2)
であるが、旧賤民身分の人々が「平民」に編入されたのは「賤民解放令」が布告された1871年であった。彼らは従来の
平民と区別され「新平民」という呼称が用いられることが多かった。旧賤民身分の人々は法的には平民となり、自由民権運動
が発展する折から、彼らのなかから「解放令」を根拠として平等を要求する動きが現れた。大審院判決も彼らの祭礼行事
への参加などの要求を支持する判決を出した。しかし、明治政府は自由民権運動を弾圧し、大日本帝国憲法を中心に、
絶対主義的天皇制を確立させた。政府がいったん切り崩そうとした大地主を頂点とする半封建的な農村の構造を温存したの
で、小作人の地主に対する経済外的強制などの隷属性は維持された。また、家父長的「家」制度が確立されたことによって
女性差別が法的に存続することとなり、これらが絶対主義的天皇制の有力な支柱となった。こうした反動化は封建的身分に
起因する社会的身分差別の撤廃をすこぶる困難にした。旧賤民身分の人々への差別も存続し、大審院判決も彼らの要求を
退けることが多くなり、民衆の間でも「新平民」という呼称がいっそう差別的に用いられるようになった。こうして
大日本帝国憲法の制定前後に部落問題は社会問題化した。1907年(明治40)前後から(明治末以降、官庁を中心に「細民部落」
が用いられた一時期を除き)「新平民」にかわって「特殊部落」の呼称が主流となった。この呼称も侮蔑(ぶべつ)的に使わ
れることが多く、差別と偏見の残存の厳しさを示した。[成澤榮壽]

359:名無しさん@1周年
19/03/14 01:04:10.85 rKKmXJe00.net
>>890 >>891 >>892 >>893 >>894 >>895 >>896
URLリンク(ja.wikipedia.org)藤原元命
「尾張国郡司百姓等解(文)[1]」により、元命は私欲に基づき貧しい農民から苛烈な収奪を行う受領の
代名詞とされ、また後世の説話の世界でもその評判は非常に悪い。「地蔵霊験記」という書物には
「術つきて東寺門にて乞食しけるが、終いには餓死したりけり」などと書かれる。また尾張の頭護山如
意寺の由来の中でも、元命は地獄沢という小川に氷が張って渡れなかったので近くにあった卒塔婆を橋
にして渡ったがその卒塔婆には地蔵菩薩が彫ってあって元命と郎党らはそれを踏みつけて渡った。
その後元命と従者は大病に煩い死ぬが地蔵菩薩が助けてくれて生き返った。しかし「元命朝臣は猶悪事止
まずして国人に憎まれ、終わりをよくせざりしとぞ、(その郎党の)為家は罪業恐ろしくおもいて、六角二階の伽藍を営み……」と。

360:名無しさん@1周年
19/03/14 01:04:21.43 rKKmXJe00.net
>>900 >>901 >>902 >>903 >>904 >>905 >>906
ZEIKIN@ccakahada
2017年8月28日
林羅山のwikipedia、修道士の「地球球体説と地動説を論破」して結果的に棄教まで追い
込むわ、方広寺鐘銘事件の例のいちゃもんで豊臣家滅ぼすわ、上下定文の理で身分制度を
絶対化するわで、めっちゃ強かったです。
朝鮮朱子学において家族主義は集産主義(社会主義・全体主義・共産主義)と相性が良くなる
URLリンク(www.sankei.com)
鈴木貫太郎首相(肩書は当時)は昭和20年6月22日の最高戦争指導会議で、ソ連仲介の和平案
を国策として決めた際、「(共産党書記長の)スターリンは西郷隆盛に似ているような気がする」 と、スターリンを評価する発言をした。
 この発言に影響を与えたとみられるのが、首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、4月に国家再建策
として作成した「終戦処理案」だ。松谷氏は回顧録『大東亜戦収拾の真相』で「スターリンは人情の機微
があり、日本の国体を破壊しようとは考えられない」「ソ連の民族政策は寛容。国体と共産主義は相容れ
ざるものとは考えない」などと、日本が共産化しても天皇制は維持できるとの見方を示していた。
 さらに「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。
米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指
すべきだとしている。

361:名無しさん@1周年
19/03/14 01:04:38.78 rKKmXJe00.net
>>910 >>911 >>912 >>913 >>914 >>915 >>916
URLリンク(ja.wikipedia.org)五色の賤
家人は、支族の末裔が隷属化したもので、待遇としては私奴婢と同等であるが、売買は禁止され、仕事に制限があった。
官奴婢(公奴婢)は朝廷の所有、私奴婢は豪族の所有で、官奴婢には古来からのものと犯罪によって落とされた二種類があり、
それぞれ66歳・76歳で官戸・良民に復帰できた。私奴婢は良民の3分の一の口分田が班給され、売買・相続された。
公私奴婢には戸の形成は許されなかった。
賤民の社会的地位
官奴婢や私奴婢は、逃亡は禁じられ、売買や質入の対象となるなど、非人道的な扱いを受けた。奴婢は主人の所有物であり、
奴婢の子供も主人の所有物で、自らの子供を売買することは禁止されていて、買った者も罰せられた。

362:名無しさん@1周年
19/03/14 01:04:48.18 rKKmXJe00.net
>>920 >>921 >>922 >>923 >>924 >>925 >>926
URLリンク(ja.wikipedia.org)奴婢
奴隷自体は、三国志魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなったとき100人以上の奴婢を殉葬したと言う記述や、
生口と呼ばれる奴隷を魏に朝貢したと言う記述が見られるように、少なくとも邪馬台国の時代には既に存在していた。
仲哀紀には神功皇后の三韓征伐でも新羅の捕虜を奴婢として連れ去ったという記述がある。また蘇我氏物部氏の争いの
時も聖徳太子が大連の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢[注釈 2]としたという記述がある。これらの古代から存在
していた奴隷を、律令制を取り入れるときに整理しなおされたとされる。
ヤマト王権では、もともと奴隷階級であったものを「ヤツコ(夜都古)」と呼び[1]、奴婢はその子孫であるか、捕虜、
あるいは罪人で奴婢に落とされた者であった。律令法においては、良民を奪って奴婢とすることは賊盗律で禁じられてい
たが、逆に言えば誘拐して奴婢とする習慣があったということである。経済的理由で奴婢となる者もおり、債務返済では
役身折酬と呼ばれる返済方法が認められていたので、多額の負債を背負わされて奴婢に落とされて使役される者もいた。
奴婢はもともと売買の対象であったが、律令が整備される過程で田畑と同じような扱いを受けるようになり、弘仁式によ
ると持統天皇4年(690年)に、いったん奴婢の売買が禁止されたが[2]、翌691年2月にはあらためて詔を発して官司への
届出を条件に売買が許可されることになった[3]。
奴婢は、良賤法の他の3種と違い戸を成すことが許されず、主家に従属して生活した。父母のどちらかが奴婢ならば、
その子も奴婢とされた。日本の律令制下における奴婢の割合は、全人口の10〜20%前後だった[4]と言われ、五色の賤の中
では最も多かった。公奴婢は非常に少なくその分布も近畿地方に限られた。奴婢は主に耕作に従事した農業奴隷であった。
奈良時代の良民人口500 - 600万人に奴婢などを加えた総人口が600 - 700万人とする説もある[5]。

363:名無しさん@1周年
19/03/14 01:04:52.55 CW5NWi6t0.net
日本では政治を政(まつりごと)と言う。
すなわち「まつりごと」とは「祭り事」であり、
「政」とは「宗教(まつりごと)」に他ならない。
「まつり」は非常に広範な意味を持つ。
・祭り(まつり)
・奉り(まつり)、奉る(まつる)
・祀る(まつる)
・服ふ・順ふ(まつろふ)…
もともとが政治と宗教は表裏一体で、
祭政一致で切っても切れないものだと、
日本の古人は見抜いていた。
だから米国大統領が聖書に手を置いて
宣誓するのも、祭政一致がわかりやすい。
こういうのはどこでも程度の差はあるだろうが
ありふれている。
自由主義、民主主義、資本主義、社会主義、共産主義に
人道主義、罪刑法定主義、実存主義、菜食主義、科学主義に
事なかれ主義…等々もご神体は見えないけど全部神様だ。
人間は本質的に多神教徒だ。

364:名無しさん@1周年
19/03/14 01:05:02.53 rKKmXJe00.net
>>930 >>931 >>932 >>933 >>934 >>935 >>936
syuji_nakamura@syujinakamura1
2月2日
愚かですね。
日本に奴隷なんていくらでもいましたよ。
魏志倭人伝にも、卑弥呼と台与が奴隷(生口)を献じたとの記述があるし、律令制では奴婢が売買の対象になっていた。
戦国時代にも「乱妨取り」という略奪や人狩りが普通に行われていて、奴隷や性奴隷が売買されていた。
アプロ@rUyaCVtIiRxgC9M
2月3日
日本人の名誉のために再度補足しますと、「律令制以降、奴隷・人身売買が禁止された」のは事実です。
しかし、建前では禁止されても現実には行われていましたし、1231年には鎌倉幕府が奴隷制を容認する布告を出し、
後成敗式目にも反映されています。

365:名無しさん@1周年
19/03/14 01:05:15.06 rKKmXJe00.net
662名無しさん@1周年2018/09/12(水) 18:24:26.62ID:J0IqokwR0>>732
>>605
江戸は諸藩の犠牲の上で成り立ってたけどな
地方の大名は、江戸幕府への参勤交代と手伝い普請の負担で借金を抱えさせられ江戸に米を送らされた
諸大名に資材や人足を負担させて、江戸城とその城下町などの建設をやらせ借金漬けにして
江戸期は生産地と消費地を分離させて
弘前藩では天明の飢饉で農民や町人の3分の1が餓死したとされてるが
収穫された米が江戸や大阪に送られ換金されてた
弘前藩は多数の餓死者を出した、その年に40万俵を江戸に送っている
仙台藩も幕府への手伝い普請の負担で借金を抱え収穫された米は、ほぼ江戸に送られていた
元禄の飢饉 1691年〜1695年による弘前藩領内・津軽一円の餓死者は20万人にも及んだ
宝暦の飢饉 1755〜1757にかけて東北地方を襲った飢饉。現在の岩手・宮城の両県にわたる範囲で約5万ないし6万人の餓死犠牲者が出たとされる
天明の大飢饉(1781〜89年)  餓死者の数は、仙台藩で20〜30万人、盛岡藩で6万人、津軽藩で8万人余、南部藩で6万5000人、八戸藩で3万人余に及んだ
弘前藩では農民の3分の1が死亡
天保の飢饉 1830年代の天保3年〜10年の連続凶作 天保4年、秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10万人
津軽藩では天保10年だけで餓死者3万6000人

366:名無しさん@1周年
19/03/14 01:05:45.17 rKKmXJe00.net
>>940 >>941 >>942 >>943 >>944 >>945 >>946
日本人が身分という単語で想起するのはカースト、奴隷、律令制となるが、身分はこうした狭義の例に限られるようなものではないし
カーストもイメージと異



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