【第二次大戦】米国に ..
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404:名無しさん@1周年
18/08/10 19:12:18.87 TNB6IJLd0.net
原爆投下前に「予告ビラ」というものがあったのか、無かったのか。興味深い記事が出ていたので、引用記載した。
1966年8月6日、被爆21周年原爆慰霊祭の遺族代表に選ばれた中村恭子さん(24)は、ハッキリと覚えていた。
3歳のとき、一家を襲い、地域義勇隊員として勤労奉仕に出かける途中の父・伍(ひとし)さん(当時30歳)を奪われた原爆投下直後のことを。
あのとき、ヨチヨチ歩きだった彼女の記憶は鮮明だ。原爆投下2日後に、自宅のあった広島市横川町二丁目の焼け跡を、ただもう、
涙とともに掘り返す母の姿。川に浮かんだ遺体をトビ口で引きあげる救助隊員。まぐろのようにずらっと並べられた遺体の山と死臭。
救助隊にもらったオニギリをほおばったこと。母とともに焼けたトタンの下で野宿した夜。
すべて今でも彼女のハダと鼻と目が覚えている。3歳児にとっても、それほど強烈な体験だったのだ。
「悪運が強かったのだ」と恭子さんは笑う。というのは、原爆が投下された昭和20年8月6日の前夜の最終バスで、
母ヤヨイさんに背負われて広島市外にある父の実家に食糧調達に出かけたため、助かったからだ。「その数日前から、
8月6日に新型爆弾を落とすから市民は逃げるように・・という米軍のビラがまかれていたそうです。それを見た母が、
あるいは・・・と思って郊外に出かけたのでは・・・」と、恭子さんはヤヨイさん(65)の愛情に感謝する。
残された母と一人娘の歩んだ道はけわしかった。父が洋服仕立業だったためか、いつのころからかヤヨイさんは洋服の行商をはじめた。
恭子さんも母とともに洋服のセールスにはげんだ。恭子さんが運転する車に洋服を積んでは、母とともに中国山脈を越え、島根方面へ出かける毎日だった。
「慰霊祭ですか、何だか外から来た人が、わいわい騒ぐだけで、しっくりしません」と恭子さんは批判的のようだ。(週刊朝日)
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