【国際】キリスト教徒夫婦をリンチし窯で焼き殺害、数百人が集団暴行 5人に死刑判決 パキスタン at NEWSPLUS
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550:名無しさん@1周年
16/11/25 13:53:55.40 lQEzewsa0.net
本を崇拝しとんのか

551:名無しさん@1周年
16/11/25 13:53:56.03 3mXPm7hN0.net
キリスト教徒に9条を

552:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:54:15.45 84rB8Z/F0.net
 列王紀略: キュロスやダリウスが(エズラ以降)ユダヤ人に好意を示し、その神殿を再建させているが、
これはおそらく、それまでバアル、アスタルテ、モロッホなどを崇拝していたユダヤ人たちが、バビロンに
おいて、ペルシア人が勝利をしめしたときから、ゾロアスター教を受けいれ、エホバという名のもとでオルム
ズドに仕えるようになったせいではあるまいか。そうでなければ、あの好意は不可解である。キュロスがイ
スラエルの神に祈りをささげた(七十人訳聖書のエズラ書・第一巻二の三)ということも、このことと符合
する(そう考えなければ筋が通らないだろう)。旧約聖書のあらゆる先行諸書はのちに、すなわちバビロン捕
囚以後に作成されたが、あるいはすくなくともエホバの教えはのちに挿入されたかしたのだ。とにかくわれ
われはエズラ書・第一巻・第八章および第九章によって、ユダヤ教の最も恥ずべき面を知る。この選ばれた
民はここでその祖先アブラハムの不快・無道な手本にならって行動している。すなわちアブラハムがハガー
ルをイスマエルとともに放逐したように、バビロン捕囚のあいだにユダヤ人と結婚した婦人たちは、ただ人
種的にMauschelでないという理由から、その子供とともに追放されたのだ。この民族のより大規模な非行
を曲飾するために、あのアブラハムの非行があみだされたものでないとしたら、これ以上卑劣なことはほと
んど考えられない。
 ユダヤ教の起源がゼンド宗教にあることを確証するものとして、ここについでながらあげておきたい
ことは、旧約聖書やその他のユダヤの典拠によれば、天使が雄牛の頭をもったものになっており、エホ
バがそれに乗って歩くということだ。(詩篇九十九の一.七十人訳聖書列王記略・第二書六の二、および二
二の一一。第四書十九の一五には「ケルビムの上に座したまう汝〔エホバ〕」とある。)エゼキエル書・
第一章および第一〇章の記述などに見られるように、半ば雄牛で半ば人間、また半ば獅子といったこう
した動物は、ペルセポリスにあるいろいろな彫刻、ことにモズルやニルムードで発見されたアッシリア
の彫像のなかに見られる。それどころかヴィーンにある彫像を施した石には、オルムズドがこのような
雄牛のケルビムに乗った姿が描かれている。このことの詳細はヴィーン文学年間一八三三年九月「ペル
シア旅行記」にある。なおユダヤ教のゼンド宗教起源についての詳しい説明は、J・G・ローデがその
著『ゼンド民族の聖なる伝説』で提供してくれる。これらすべてはエホバの系譜に光をあたえるものだ。
 これに反して新約聖書はとにかくインド的な由来のものであるにちがいない。道徳を禁欲に移すまっ
たくインド的なその倫理、その厭世観およびその降化がこれを証拠立てている。しかし、まさにそのた
めに新約聖書は旧約聖書と決定的に内面的に矛盾することになり、けっきょくアダムとイヴの堕罪の物
語だけが、両者のつなぎになったのである。というのは、あのインドの教えが約束の国にはいってきた
とき、この世が堕落していて悲惨であり、したがってそれを救う必要があるという認識、降化をはじめ
として、自己否定と懺悔の道徳によって救われるという認識を―ユダヤ的一神教ならびにその楽天的
な「すべてはたいへん良かった」に結びつける課題が発生したのだ。そして、それは事情のゆるすかぎ
り、つまりこれほどまったく異質的な、否、対立的でさえある二つの教えを結びつけうるかぎりにおい
て、成功したのであった。

553:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:54:33.97 84rB8Z/F0.net
 支柱や手がかりのいる常春藤のつるが、荒削りな棒杭にからみついて、どんなところでもその不格好
な形に順応し、その形を再現しながらも、自分の生命と優雅でそれに覆い、こうして棒杭ではなしに、
こころよい眺めをわれわれに見せてくれるのと同様に、インドの知恵に発したキリスト教の教えが、これ
とまったく異質的な荒けずりなユダヤ教の古い幹を覆ってしまったのだ。そしてもとの形のうちで保存
されなければならなかったものは、キリストの教えによってまったく別のものに、いきいきとした真実
なものに変えられたのである。それは同じもののように見えながら、ほんとうは別なものなのだ。
 つまりこの世と切り離されていた無からの創造者は救世主と同一視され、またそれをつうじて救世主
を代表者とする人類とも同一視されたのだ。なぜなら、人類はアダムにおいて堕落し、それ以後、罪・
堕落・苦悩・死のきずなに巻きこまれていたけれども、救世主において救われることになるからだ。仏
教におけると同様に、ここでもこの世は罪や堕落、苦悩や死としてその姿を示すからである。―「す
べてをたいへん良い」と見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものが「この世の君」(ヨ
ハネによる福音書一二の三一)、文字どおりに世界支配者とよばれるのだ。この世はもはや目的ではな
く、手段となる。つまり永遠のよろこびの国は、この世の彼岸、死のかなたにあるのだ。この世におけ
る諦念とあらゆる希望をよりよき世界へ向けることが、キリスト教の精神である。しかしこのような世
界への道をひらくのは、贖罪、すなわちこの世とその道からの解放である。道徳においては、報復権の
かわりに、敵を愛せよという掟があらわれる。無数の子孫を約束することに取ってかわって、永生の約
束があらわれる。犯罪に対する神罰が四代の子孫にまで及ぶということにかわって、すべてを庇護する
聖霊が立ちあらわれるのである。
 こうしてわわわれは新約聖書の教えによって、旧約聖書の教えが修正され、転釈を受けていることを
見いだす。このことによって旧約の教えは内面的・本質的にインドの古い宗教と一致するようになった
のだ。キリスト教のもっている真実な点は、すべてバラモン教や仏教にも見いだされる。しかし、無か
ら生命をあたえられ、しばしの時をおくるこの神のこしらえものである人間が、歎きと不安と困窮にみ
ちたこのはかない生存をあたえられたことに対して、いくらへりくだって感謝してもじゅぶんではな
く、そのためにエホバをどのように讃えても讃えきれるものではないというユダヤ的な考え方は、ヒン
ドゥー教や仏教にこれを求めてもむだであろう。なぜなら、新約聖書には、インド的知恵の精神が、は
るかな熱帯の原野からいくたの山河を越えて吹いてくる花の香りのように感知されるけれども、旧約聖
書では、インド的知恵に適合するものは人類堕落論以外にはなにものもないからだ。この堕落論は楽天観的
な有神論を修正するものとして、旧約聖書につけ加えられる必要があったのであり、じじつまた新約聖
書はこれを唯一の手がかりとして、堕落論に結びついたのである。
 さてある種を徹底的に知るには、その類を知る必要があり、またその類そのものはふたたびその種
的様相においてのみ認識されるものだ。それと同様に、キリスト教を徹底的に理解しようとすれば、世
界否定的な二つの他の宗教、すなわちバラモン教と仏教を知る必要がある。しかも確実に、できるだけ
精密に知る必要があるのだ。というのは、サンスクリットがギリシア語とラテン語を真に徹底的に理解
する道をわれわれにひらいてくれるのと同様に、バラモン教と仏教こそ、キリスト教を真に理解する道
であるからだ。

554:名無しさん@1周年
16/11/25 13:54:49.95 BJBNoIFv0.net
日本に移民するイスラム教徒にコーランを踏ませようw

555:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:54:58.10 84rB8Z/F0.net
 いつか将来、インドの宗教に精通した聖書研究家があらわれて、キリスト教がインドの諸宗教と親縁
関係にあることをその特色をつうじて証明してくれるだろうという期待をさえいだいているわたしだ
が、さしあたって次のような点を注意しておこう。ヤコブの手紙(三の六)に見られる「生存の車輪」
(逐語的には「発生の輪」)という表現は、昔から「解釈者にとっての十字架」つまり難問のひとつだっ
た。ところが仏教では輪廻の車輪はきわめてありふれた概念である。アベル・レミュザの『仏国記』訳
二八頁には、「車輪は輪廻の象徴である。輪廻には円と同じように始めも終わりもないからである」と
書かれており、一七九頁には「車輪は仏教徒にはなじみの象徴である。その意味するところは、魂がさ
まざまな形をとる生存の円のなかで、次から次へと移ってゆくということである」と見える。二八二頁
には、仏陀自身が「真理を悟らぬ者は、車輪の回転によって、生と死におちいるであろう」と述べてい
る。われわれはビュルヌフの『仏教史序論』第一巻四三四頁に、次のような重要な個所を見いだす。
「彼は輪廻の車輪がどういう点にあるかを悟った。この車輪は動くと同時に動かないものであり、それ
には五つの目じるしがあるのである。彼は世人がこの世にはいって行くあらゆる道を破壊することによ
り、この道に対して勝利をおさめたのであった」と。スペンス・ハーディの『東洋の修道生活』(ロン
ドン、一八五〇年)六頁には次のように読まれる。「車輪の回転のように、そこには死と生誕の規則正
しい継起がある。その道徳的原因は物への執着であるが、それをひき起こす原因は業なのである」と。
同書一九三頁および二三三頁参照。また『プラボード・チャンドロー・ダヤ』(第四幕・第三場)には、
「無知は、この死すべき存在の車輪をまわしている情念の源泉である」と見える。継起する諸世界が不
断に生じては消えてゆくことについて、ビルマ原典によるビュナカンの仏教の説明(『アジア研究』第
肋間一八一頁)には、『世界の連続的破壊と再生は、大きな車輪に似ている。この車輪においては、わ
れわれは始めも終わりも認めることはできない」と言われている。(これより長い文章ではあるが、同
じ個所はサンジェルマーノの『ビルマ帝国解説』ローマ、一八三三年、七頁にもる。)
 グラウル専門語辞典によると、Hansa とは Saniassi の同義語である。―Johannes (これからドイ
ツ語では Hans がつくられる)という名前は Hansa という語(およびその砂漠における隠遁生活)と
奸計が或るのではあるまいか。―
 仏教が外面的に、たまたまキリスト教と類似しているひとつの点は、仏教がその発生地では優勢では
ないことで、つまりどちらも「予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言わざるをえないことだ。
 キリスト教がインドのいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい
ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実があって、イエスがイ
ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的倫理と降化の概念を受
けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木しようと努めたのだ、
と仮定できるかもしれない。イエスは、自分が道徳的にも知的にもすぐれているという気持ちに駆られ
て、ついに自分自身を一個の降化者と見るようになり、したがって自分を「人の子」とよび、ただの人
間以上の存在であることを暗示しようとしたのではあるまいか。一般に物それ自体としての意志には全
能の力があり、それはわれわれも動物磁気やこれに類する魔術的作用などから知っているところだが、
イエスもその意志が強固で純粋であったために、この全能の力によって、いわゆる奇蹟を行なうこと、
つまり意志の形而上学的感化を使って働きかけることができたのだとさえ考えられるであろう。この場
合にもやはりエジプトの僧侶たちの教育が役に立ったのであろう。そしてこうした奇蹟のかずかずを、
のちに伝説が拡大・増大したわけであろう。

556:名無しさん@1周年
16/11/25 13:55:05.93 UrHqPR8l0.net
>>538
もっと分りやすい文章でお願いします。
キリスト教の歴史が70年しか経ってないみたいに見えましたw
韓国とか中国共産党とかイスラエルみたいにw

557:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:55:20.30 84rB8Z/F0.net
というのは、本来の奇蹟というものは、どんな場合も、自然が自分自身にあたえる一種の否認であるは
ずだからだ。ところで、パウロの主要な手紙はなんといってもほんとうのものであるにちがいないが、
そのパウロがしばらくまえに死んだばかりの人を、したがってその同時代者がたくさんまだ生きている
という状況下で、どうして大まじめに受肉して人間となった神であり、世界創造者と同じものであると
説明できたかは、そういう前提のもとで、はじめていくらかのみこめるものになる。普通ならば、この
種の、またこの程度の、まじめに考えられた神化が徐々に熟してゆくには、何世紀もかかるはずだから
だ。しかし他方ではパウロの手紙一般の真正さに対する反証を、ここから引き出してくることもできよう。
 一般にわれわれの福音書の根底には、なんらかの原典、あるいはすくなくともイエス自身の時代と環
境に由来する断片ぐらいはあったと思われる。わたしがこういうことを推定するのは、世界の終末がお
とずれて、主なる神が雲のなかに輝かしく再臨されるという、はなはだ不快な予言が行なわれており、
しかもそれは、この約束に立ち会った二、三の人びとがまだ生きているうちに実現するはずになってい
た点からなのだ。ところがこの約束がいつまでたっても果たされなかったことは、じつに困った事情
で、後世になって物議をかもしただけでなく、すでにパウロやペテロも困りぬいていたのだ。このこと
はライマールスのすぐれた著書『イエスとその使徒たちの目的について』第四二節から第四四節にかけ
て詳論されているところである。さてもし福音書が約百年もたってから、当時存した記録もなしに著作
されたとしたら、それが実現しないことが不快にもすでに明白になっていたこの種の予言を福音書のな
かにもちこまないような作者たちは気をつけただろうと推定されるのである。同様に、ライマールスが明
敏にも使徒たちの最初の体系と名づけているものにあたるあの個所を福音書に挿入することもなかった
であろう。この体系に従えば、イエスは彼ら使徒たちにとって、ただ俗世における一介のユダヤ人解放
者にすぎなかったのだ。
 こういう挿入がなされたというのも、福音書の起草者たちが、こうした個所をふくむ同時代のいろいろな
記録ををもとにして仕事をしたからだと思われるのだ。というのは、信者たちのあいだで口伝えにつたえら
れていた伝説でさえも、信仰に不都合をきたすようなことは落としてしまったと想定されるからだ。ついで
ながら、ライマールスが彼の仮設にとくに好都合な個所をいろいろ見落としているのは不可解だ。たとえば
ヨハネ一一の四八(この個所を一の五〇、六の一五と比較すること)、マタイ二七の二八ー三〇、ルカ二三
の一ー四、三七、三八、ヨハネ一九ー二二である。しかし、この仮説を真剣に妥当・貫徹させようと思うな
らば、次のような想定が必要となるだろう。すなわち、キリスト教の宗教的・道徳的内容は、ヒンドゥー教
や仏教の教義に精通したアレクサンドレイアのユダヤ人たちによってつくりあげられたのではないか、そこ
へひとりの政治的英雄が悲しい運命を背負って現われたので、もともと後世のメシアであったものを天上的
な救世主につくりかえることによって、これらの教義の結び目にされたという想定である。もちろんこの想
定は矛盾する点が非常に多い。しかし福音書の物語を解明するためにシュトラウスが提示した神話の原理は、
すくなくともその細部に対しては、たしかに正しい。それにしても、この原理がどこまで及ぶかをきめるこ
とは、むつかしいであろう。一般に神話的物語がどういう事情にあるかは、もう少し手近な疑義の少ない実
例について明らかにしなければならない。たとえば中世全般にわたって、フランスでもイギリスでも、アー
サー王はきわめて事蹟の多い、驚くべき人物ではあるが、輪郭ははっきりしており、いつも同じ性格をもっ
て、同一の従者を伴って登場する。王の円卓やそれを囲む騎士たち、王のかずかずの前代未聞の英雄的行為、
その風変わりな執事、その不貞な妃、妃の愛人ランスローなどといったお膳立てで、この王は何世紀もの詩
人たちや物語作者のおきまりの主題になっているが、これらの作者たちはすべて同じ性格をもったもろもろ
の同一人物を登場させており、事件の点でもかなり一致しているのである。ただ服装や習慣の点では、作者
自身のそのつどの時代に応じて、相互にひどく違っているだけの話だ。

558:名無しさん@1周年
16/11/25 13:55:34.67 xD+6bIz40.net
カルト宗教のコピペがまた始まったよ
662 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP :2016/04/01(金) 18:25:47.12 ID:Wpmzur0c.net[39/88]
ほれ
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
これは2011年にアルメニアの聖地エチミアジンで撮影した幸ちゃんの写真だ。
URLリンク(i.imgur.com)
これは2011年にアゼルバイジャンのバクー近郊で撮影したもんだ。お袋も一緒に写ってる。
URLリンク(i.imgur.com)
インドの写真もあるで
URLリンク(i.imgur.com)

559:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:55:51.06 84rB8Z/F0.net
 ところで数年前、フランスの内閣は、アーサー王の伝説の起源をしらべるために、ド・ラ・ヴィルマルク氏
をイギリスへ派遣した。そのときの結果は、伝説の根底にある事実については、次のようなことであった。す
なわち、六世紀の始め、ウェールズにアーサーという名の小領主がいて、侵入してきたサクソン人と根気よく
戦ったけれども、そのささいな事蹟は忘れられてしまった、というのである。してみると、この男が、どうし
てだかわからないが、幾世紀もつうじて無数の歌謡・物語詩・物語のうちに讃えられてきたあの輝かしい人物
になったわけなのだ。ヴィルマルケ著『古代ブルターニュの民話。アーサー王の円卓にまつわる叙事詩の起源
についての試論付』(二巻、一八四二年)を見られたい。この『アーサー王伝』では、アーサーは霧のなかの
人物のようにぼんやりとした遠くはるかな存在としてあらわれているが、それでも現実的な核心がないわけで
はない。―中世紀全体をつうじての英雄であるロランについても、事情はほとんど同じである。ロランも無
数の歌謡・叙事詩・物語で讃えられ、さらにロランの甲冑騎士柱像によって称揚され、ついにアリオストにま
でもその素材を提供して、この作品から変容して復活するようになったのである。ところでロランについては、
歴史はたった一回、たまたま、しかも三語をもって言及しているにすぎない。すなわち、アインハルトが彼ロ
ランをロンセスヴァリエスに滞在した名士のなかに「ブリテン王辺疆伯」(Britannici limitis praefectus)
たるロードランドゥスとして数えあげているのだ。そしてこれがわれわれのロランについて知っているすべて
であることは、ちょうどイエス・キリストについてほんとうにわれわれの知っていることが、タキトゥス
(『年代記』第一五巻・第四四章)の一個所につきるのと同様なのだ。別の例を示すものに、世界的に有名な
スペイン人シッドがある。
多くの伝説や年代記、とりわけあの有名なすばらしい『ロマンツェーロ』におさめられている民謡、はて
はコルネイユの最上の悲劇までが彼を讃美しており、しかも主要事件については、とくに妻になったシメ
ーネのことではだいたいにおいて一致している。ところがわずかな歴史的資料が彼について伝えているこ
とは、彼はなるほど勇敢な騎士、すぐれた将軍ではあったが、非常に残酷・不実な性格の持ち主であり、
それどころか、ときによって仕える党派を変え、キリスト教徒に奉仕するよりもむしろサラセン人に味方
するほうが多かったような節操のない人物であり、それはまるで一介の傭兵隊長に類するが、シメーネの
ひとりと結婚している、といったこと以上に出ないのである。こうしたことの詳細は、はじめて正しい
典拠に行きついたと思われるドージの『スペイン史研究』(一八四九年)第一巻から知ることができる。
―イリアスの歴史的根拠ははたして何であろうか?―じっさい、こうした問題の実態につきあた
るには、ニュートンのりんごの逸話を念願におくがよいのだ。この話に根拠がないことについては、わ
たしはすでに第八六節で説明したとおりなのだが、それでも何千という本でくりかえされているところ
で、現にオイラーさえも、『皇女あての書簡』の第一巻で、麗々しく述べたてているのだ。―およそ歴
史的事実はたいせつにすべきものである以上、残念ながら現状に見られるように、われわれは大嘘つき
であってはなるまい。

560:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:56:06.71 84rB8Z/F0.net
  第一八〇節 宗派
 原罪ならびにこれと結びつく点を教義にかかげているアウグスティヌス主義は、すでに述べたよう
に、理解のゆきとどいた本来のキリスト教である。これに反してペラギウス主義は、キリスト教を粗
野・平板なユダヤ教とその楽天観に逆転させようとする努力である。
 教会をたえず二分してきたアウグスティヌス主義とペラギウス主義の対立は、その究極の根源までお
しつめれば、前者は事物の本質そのものを論じているのに対して、後者は自分では本質と思いながら現
象を問題にしているにすぎない、というふうに還元できよう。たとえばペラギウス派は、まだなんにも
していない子供には罪がないにきまっているという理由から、原罪を否定する。―こういうことを言
いだすのは、なるほど子供は現象としては存在しはじめたばかりではあるけれども、物それ自体として
はそうでないことを、彼らが見ぬいていないからなのだ。意志の自由についても、救世主の贖罪の死に
ついても、恩寵についても、要するにすべての点について、同じことが言える。―それがわかりやす
く平板であるために、ペラギウス主義はいつでも優勢であるが、現代ではとりわけ合理主義として幅を
きかせている。ギリシア正教教会はペラギウス主義をやわらげたものである。トリエント公会議いらい
カトリック教会もこれと同様で、そのためカトリック教会は、アウグスティヌス的立場に立つがゆえに
神秘的な思想をもったルターや、さらにまたカルヴァンに対抗しようとしたのだ。同様にイエズス派も
半ばペラギウス主義的である。これに反してヤンセン派はアウグスティヌス主義を奉じており、彼らの
見解がおそらくキリスト教の最も純正な形であろう。というのは新教は、独身や一般に本来の禁欲を否
定し、禁欲の代表者である聖者を否認したことによって、すりきれた、あるいはむしろ画龍点晴を欠い
た腰くだけのキリスト教になってしまったからだ。こうなってはどうにもならない。

561:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:56:23.70 84rB8Z/F0.net
  第一八一章 合理主義
 キリスト教の真髄は、アダムとイヴの堕落・原罪の教えである。すなわち、われわれの自然の状態は
度しがたく、自然的人間は堕落しているという教えであり、これに救世主による代理と贖罪が結びつ
き、われわれはこの救世主に対する信仰によって贖罪にあずかるというのである。このためキリスト教
は厭世観とみられるのであって、したがってユダヤ教の楽天観や、またユダヤ教の正統の子供である回
教の楽天観にはまさに対立するが、バラモン教や仏教とは類似するものとなるのである。―すべての
人はアダムにおいて罪を犯し、永劫に罰せられているが、救世主において救われるということには、人
間の本来の本質と真の根源が個人にあるのではなくて、人間の(プラントン的な)イデアである種にあ
るということ、個人は時間のうちにくりひろげられるイデアの現象にすぎないということも、表現され
ているのである。
 もろもろの宗教の根本的差異は、それが楽天観であるか厭世観であるかという点にあるのであって、
一神論であるか多神論であるか、三神一体であるか三位一体であるか、汎神論であるか、それとも(仏
教のように)無神論であるかといった点にあるのではない。だからこそ、旧約聖書と新約聖書はたがい
に正反対なのであって、これを結びあわせると一個奇怪な半人半馬ができあがるのだ。つまり旧約聖書
は楽天観、新約聖書は厭世観だからだ。旧約聖書はたしかにオルムズド教に由来するが、新約聖書はそ
の内面的精神からいえば、バラモン教や仏教に親縁で、たぶん歴史的にもなんとかこれらの宗教から導
きだすことができよう。音楽にたとえれば旧約は長調、新約は短調だ。ただ人類堕落論だけは旧約聖書
のなかでひとつの例外をなしており、キリスト教が唯一の接点としてふたたびとりあげるまでは、利用
されないままに一種の前菜にとどまったのである。
 右に述べたキリスト教の根本性格は、アウグスティヌス、ルター、メランヒトンがきわめて正しく把
握しており、これを最大限に体系化しているのであるが、われわれの現代の合理主義者たちは、ペラギ
ウス派の亜流として、この根本性格をできるだけ抹消し、あらぬ解釈をほどこして、キリスト教を味気
ない、利己主義的・楽天観的なユダヤ教に還元しようとしている。そこへ彼らはよりよき道徳をつけ加
え、論理的に徹底した楽天観が要求するものとして来世を説くのだ。つまりこのすばらしい人生があま
りに早く終わらないようにというわけだ。つまり彼らの楽天観的見解を大声で打ち消すやつ、しかし結
局は石の客として陽気なドン・ファンをおとずれるあの死神を片づけたいわけなのだ。―
 こうした合理主義者たちは誠実な人種ではあるが、平板な頭しかもっていない連中だ。彼らには新約
聖書の神話の深い意味など、見当もつかない。彼らは自分たちの把握できる、また彼らにふさわしいユ
ダヤ的楽天観を超えられないのである。その欲するところは、歴史的な面でも、教義的な面でも、むきだ
しの無味乾燥な真実で、われわれは彼らを古代のエウヘメロス主義に比較することができる。もちろん
超自然主義者の唱えるところは、本質的には一個の神話である。しかしこれは重要で深遠な真理をはこ
ぶ車なのであって、真理を大衆の理解に近づけるには、他の方法では不可能であろう。ところでこれら
合理主義者たちが、キリスト教の意味と精神を認識するどころか、その見当もついていないことは、た
とえば彼らの偉大な使徒ヴェークシャイダーがその素朴な教義論で示しているところだ。すなわち彼は
その『教義論』(第一一五節および注)で、原罪ならびに自然的人間の本質的堕落についてのアウグス
ティヌスや宗教改革者たちの深い発言に対して、『義務について』の諸巻に見られるキケロの気のぬけ
たおしゃべりを対置してはばからないのである。彼にはこのおしゃべりのほうがずっと気にいるから
だ。われわれはじっさい、この男がなんのこだわりもなく自分の無味乾燥ぶりと平板さをさらけだし、
それどころかキリスト教の精神に対する理解が皆無であることを見せびらかすのを見て驚かざるをえな
い。しかし彼はたんに「多くのなかのひとり」にすぎない。

562:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:56:44.28 84rB8Z/F0.net
現にブレトシュナイダーは、原罪と救済がキリスト教の精髄であるのに、原罪を聖書からしめだすよう
な解釈をほどこしているではないか。―
 他方、超自然主義者はときとして、もっと始末のわるい存在、すなわち言葉の最もわるい意味での坊
主であることは否定できないことだ。そこでキリスト教はまるでスキュラとカリュブディスのあいだを
どうしたらきりぬけるかという羽目になるのだ。両派の共通の誤謬は、ともに宗教のなかに、ヴェール
をかぶらない。無味乾燥な、文字どおりの真理を求めていることだ。しかし真理は哲学においてのみ追
究されるもので、宗教の有する真理は、民衆に適合した、間接的・象徴的・比喩的真理にすぎない。キ
リスト教は、ある真実な思想を模写しているひとつの比喩である。しかし比喩そのものは真理ではな
い。にもかかわらずそれを仮定することが、超自然主義者と合理主義者に共通する誤謬なのだ。超自然
主義者は比喩をそれ自身真実であると主張する。合理主義者はひねくった解釈をこねまわしたすえ、彼
らの尺度なりに比喩がそれ自体として真実たりうるようにしようとする。こうしておいてから両派はた
がいに適切・強力な論拠をひっさげて論争する。合理主義者は超自然主義者にむかって、「きみたちの
教説は真実じゃない」と言い、これに対して超自然主義者は、「きみたちの教説はキリスト教じゃない
よ」と合理主義者にやりかえすのだ。両者ともその言いぶんにまちがいはない。合理主義者は理性を尺
度としていると信じているが、じつは有神論と楽天観の前提にとらわれた理性を尺度としているにすぎ
ない。それはちょうどあらゆる合理主義の原型であるルソーの『サヴォワ副牧師の信仰告白』のような
ものだ。それゆえ合理主義者がキリスト教の教義のなかで残しておこうとするのは、彼らが本来的意味
で真とみなすもの、すなわち有神論と霊魂の不滅以外にはない。もし彼らがこの場合、無知の厚かまし
さで純粋理性に訴えるならば、われわれは彼らに純粋理性批判をお見舞いしなければならない。
それは彼らに否も応もなく次のことをわからせるためだ。すなわち、彼らが理性にかなったものとして選
びだして保持している教義は、内在的原理を超越の世界に適用しているにすぎないということ、したがっ
て彼らのその教義は、カントが『純粋理性批判』の各ページで叩き、まったく無価値なものと立証してい
る、あの無批判的な、支持できない哲学的独断論にすぎないということである。こういう不合理を犯し
ている以上、合理主義者という彼らの名前からして、じつは彼らが合理主義に敵対するものであること
を示しているのだ。したがって、超自然主義にはそれなりの比喩的真理があるけれども、合理主義には
どのような真理も認めることはできない。合理主義者の言いぶんはまったく筋が通っていないのだ。合
理主義者を志す者は、哲学者にならなければならない。哲学者である以上は、あらゆる権威から解放さ
れなければならず、なにものにもひるむことなく前進しなければならない。しかし神学者を志す者は、
その一筋を通すべきで、権威の基礎を見捨ててはならない。たとえ権威が不可解なことを信じよと命令
する場合でも、うしろを見せてはならないのだ。ひとは二君に仕えることはできぬ。理性に仕えるか、
聖書に仕えるか、あれかこれかである。この場合、中庸とは二つの椅子のあいだにすわること、不可能
事を意味する。信仰するか、哲学するか! どちらでも選んだほうに徹底すべきだ。ところが、ある点
までは信仰してそれ以上に進まず、同じように、ある点までは哲学してそれ以上に進まぬということ、
―これこそ合理主義の根本性格をなす中途半端というものだ。ところで合理主義者は、彼らがまった
く誠実に仕事にあたり、だますといっても自分自身に限られている点では、道徳的に是認できるけれど
も、超自然主義者のほうは、単なる比喩にすぎないものを本来的意味の真理だと言いはることによっ
て、たいがい故意に他人をだまそうとするのである。とはいえ、超自然主義者の努力によって、比喩の
なかにふくまれている真理は救われるのだ。

563:名無しさん@1周年
16/11/25 13:56:47.85 GpC0/uSo0.net
>>541
チョンはデモで焼いているねえ

564:名無しさん@1周年
16/11/25 13:56:56.58 13yLrL8W0.net
イスラム教の経典には、ユダヤ教徒とキリスト教徒は殺せ
多神教徒は人間じゃないから、殺しても強盗・強姦してもいいって書いてある
イスラムの教えどおりにやっただけ
イスラム教徒が日本で増えたら、日本人を殺したり強盗・強姦しまくる

565:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:57:05.13 84rB8Z/F0.net
ところが合理主義者は、その北方的冷静さと平板さから、比喩に含まれた真理を投げだすと同時に、
キリスト教の全真髄をも惜しげもなく捨ててしまい、それどころか、八十年まえにヴォルテールが一
気に行きついたところへ、一歩一歩と進みながらも結局は行ってしまうのである。彼らが神の特性
(通性原理)を定めるにあたっては、いわゆる「神」という単なる言葉・標語ではとうていまにあわ
ないのだが、それが人間でもなく自然力でもないという、ちょうどその中間を射当てようと慎重にね
らっている彼らの様子を見るのは、ときとして愉快な見ものだ。だが、そういうことはもちろん困難
なことである。ところで合理主義者と超自然主義者がそうして戦っているうちに、ちょうどカドモス
がまいた龍の歯のたねから生まれた甲冑の勇士たちのように、両派ともたがいに疲れはててしまう。
そのうえ、ある側面から活動を開始する似非信心が、この事態にとどめを刺す。イタリアの諸都市の
謝肉祭で、冷静に、まじめにそれぞれの仕事にはげんでいる人々のあいだを気ちがいじみた仮面が走
りまわっているのが見られるように、今日のドイツでは、哲学者・自然科学者・歴史家・批評家・合
理主義者のあいだを、もう何世紀もまえの衣裳を身につけた似非信心の徒が騒ぎまわっているのが見
うけられる。その効果は、とくに彼らが熱弁をふるうときには滑稽だ。
 信仰は愛情のようなものだ。強制できないのであるだから、国家的手段で信仰を採用したり固定し
たりしようとするのは、不都合な試みである。というのは、愛情を強いようとする試みが憎しみを生む
ように、信仰を強いようとする試みこそ、かえってほんとうの不信仰を生みだすからだ。信仰をおし進
めるには、あらかじめ周到な用意をととのえて、間接的にやらねばだめだ。つまり信仰が伸びるような
いい土壌をととのえる必要があるのだ。この土壌がすなわち無知なのである。だからイギリスでは昔か
ら現代にいたるまで無知に気をくばって育ててきたので、国民の三分の二は文盲というありさまだ。
だから今日でもイギリスでは、ほかの国でさがしても見つからぬような盲信がのさばっている。しかし
政府はいまや国民教育を僧侶の手から取りあげつつあるから、やがて信仰も下り坂になるだろう。―
そういうわけで全体としてはキリスト教は、たえず科学によって足もとをくずされながら、しだいにそ
の終末にむかって進んでゆくのだ。それにしても、原典をもたぬ宗教だけが滅びるという考察からキ
リスト教にも脈はあると見ていいかもしれない。ギリシア人やローマ人、これら世界を支配した民族の
宗教は滅びた。これに反して軽蔑されたユダヤ民族の宗教は残った。同様にゼンド民族の宗教も拝火教
徒のあいだで維持された。だが、ガリア人、スカンジナヴィア人、ゲルマン人の宗教は滅亡した。しか
しバラモン教や仏教は存続して栄えている。この二つの宗教は、あらゆる宗教の中で最古のものであ
り、詳細な原典をもっているのである。
 ※宗教にうしろめたいところがあるにちがいないことは、宗教を馬鹿にすることがじつに重い刑罰で
禁止されていることからも推しはかられる。ヨーロッパの諸政府は国教を攻撃することを禁じている。
ところがこの政府自体は宣教師をバラモン教や仏教の諸国に派遣しており、彼ら宣教師はその国々の宗教
をさかんに徹底的に攻撃している、―彼らの輸入した宗教が割りこめるようにと。それでいて、ひとた
びシナの皇帝やトンキンの大官がこういう人たちの首をはねたりすると、政府筋は悲鳴をあげるのだ。―

566:名無しさん@1周年
16/11/25 13:57:05.78 NWCpkR6tO.net
>>543
やっぱりネトウヨ=中卒なんだなあ。
いまある科学技術の多くはイスラムが起源なのに、そんな世界史の常識さえ知らない。

567:名無しさん@1周年
16/11/25 13:57:16.88 UrHqPR8l0.net
>>544
そういう連中の集まりが
イスラム教徒になるから他宗教への攻撃やら暴徒化するような事件が多いんだよね。

568:名無しさん@1周年
16/11/25 13:57:38.11 LS5yAR/oO.net
84rB8Z/F0

いい加減にしろコピペスレ私物化野郎!
宗教云々よりネットにあるお前の写真消せや?目が腐るわキモ顔!

569:名無しさん@1周年
16/11/25 13:58:08.34 KNPRpLRB0.net
偶像崇拝NGの草加もご本尊を古雑誌と一緒に
うっかり捨てられたら、転してやりたいと思うのかな

570:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:58:21.34 84rB8Z/F0.net
>>568
写真を何度も貼ってる奴に言えよw

571:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:58:49.90 84rB8Z/F0.net
 第一二八節
 一つの個別的出来事を基礎とする宗教、しかも、これこれの場所、これこれの時に起こった事件を世
界ならびに生存の転回点にしようとする宗教は、基礎そのものが薄弱だから、人びとがいくらか反省す
るようになると、たちまち存立することができなくなる。これにひきくらべ仏教で何千という仏陀を想
定しているのは、まことに賢明ではないか! これはキリスト教の二の舞を演じないためだ。キリスト
教では、イエス・キリストがこの世を救済したことになっていて、キリスト以外に救いはありえない、
―だが、エジプト、アジア、ヨーロッパにその堂々たる記念碑を残している四千年の歳月は、キリス
トのことなんか知るはずもなく、このキリスト以前の諸時代が、あらゆるその壮麗さとともに、とつぜ
ん悪魔にくわれてしまったとは! たくさんの仏陀が必要なわけは、ひとつひとつのカルパを終わるご
とに世界は滅び、そしてこの世界とともに教えも滅びるので、新しい世界ごとに新しい仏陀が求められ
るからなのだ。救いはつねにあるわけなのだ。―
 文明がキリスト教的諸国民において最も高いということは、キリスト教が文明に幸いするせいではな
くて、キリスト教が死滅していて、ほとんど影響力をもっていないためなのだ。キリスト教が影響力を
もっていたあいだは、文明はおくれていた。すなわち中世がそうだ。これに反し、回教、バラモン教お
よび仏教は、いまでも人生に対して徹底的影響力をもっている。影響力がいちばん少ないのはシナで、
だから文明もその高さにおいてヨーロッパにほとんど比肩する。すべての宗教は文化と敵対関係にある。―
 宗教は昔は軍隊でもその背後に駐留して隠れることのできた森であった。現代で同じことをやろう
としても、うまくいかない。というのは、さんざん伐採したから、この森も藪になってしまって、たま
にぺてん師が身をひそめるくらいになってしまったからだ。だからわれわれはなんにでも宗教を引き入
れようとする連中を警戒しなければならない。そしてこういう連中には、さきに引用した格言「十字架
のうしろには悪魔がいる」で対抗すべきだ。

572:名無しさん@1周年
16/11/25 13:59:00.03 jOpk/jNP0.net
それでもゴキブリ自民は税金を使って
社会のあらゆる面で犯罪移民だろうがカルトだろうが定着させようとしてる。
自分らの利益のために日本人を海外に売った連中の
直系が自民党だよな。
ちゃんと国民が動けば自民だろうが民主だろうが吹っ飛ぶだろ?
愛国心を持って自民党を日本から駆逐意識を持って動かないとダメ

573:名無しさん@1周年
16/11/25 13:59:07.78 z6G+6iu00.net
>>20
それもそうだな

574:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:59:09.49 84rB8Z/F0.net
   第一六章 サンスクリット文学に対する二、三のこと
  第183節
 サンスクリットで書かれたものでは、わたしは宗教および哲学方面の作品は大いに尊敬するけれど
も、文学作品には、ただまれにしか楽しみを見いだすことができなかった。ときには、これら文学作品
の無趣味で奇怪なことは、これを生みだした諸民族の彫刻に劣らないという気がしたこともある。彼ら
の戯曲をわたしが評価するのも、宗教的信仰や風習に対してたいへん教えるところの多い説明や例証が
そこにふくまれているためにすぎない。すべてこうしたことは、詩がその本性上、翻訳できないために
起こることだろう。というのは、詩では、思想と言葉があたかも「胎盤における子宮の部分と胎児の部
分」のように緊密・強固に癒着しており、この言葉を外国語に置きかえると、思想を傷つけざるをえな
いからだ。もともと詩として韻をふんだものは、思想と言葉がとりむすんだ一種の妥協ではないか。し
かしこれは事の性質からいって、思想の生まれてきた母胎であるそれ自身の地盤でのみできることで、
われわれがそれを移植しようという外国の地盤、しかもたいがいの翻訳者の頭のような不毛な地盤では
できない相談だ。およそ何が対立するといっても、詩人がその感興を自由に吐露し、それがおのずから
本能的に韻律となってあらわれる場合と、翻訳者が冷たく打算的に、痛々しいばかりに四苦八苦して
綴りを数え韻をさがす場合にまさるものがあろうか。しかもヨーロッパには直接われわれに話しかけて
くる詩的作品にはこと欠かないが、正しい形而上学的知見には大いに不足しているから、サンスクリッ
トから翻訳する人たちが、文学作品などにはあまり苦労しないで、むしろその労苦をヴェーダやウパニ
シャッドや哲学的著作にふりむけるべきだと、わたしは考えている。
  第一八四節
 ギリシア・ローマの著述家のものでさえ、これをほんとうに正しく、精確に、いきいきと理解するに
は、そのために周到に養成されたえりぬきの教師に助けてもらい、何世紀ものあいだに成就されたすば
らしい文献学的補助手段を使っても、なかなか困難なことである。しかもギリシア語やラテン語は、な
んといってもヨーロッパにおけるわれわれの先輩の言葉であり、現に生きているもろもろの言語の母で
あるのにひきくらべ、サンスクリットは千年もまえに遠いインドで話されていた言葉であり、これを学
びとる手段も比較的まだ非常に不完全である。こうしたことどもを考慮にいれ、さらにそこへ、ヨー
ロッパの学者たちがサンスクリットから訳したいろいろな翻訳が―ごく少数の例外を除いて―わた
しにあたえた印象をつけ加えてみると、われわれのギムナジウムの三年生あたりがギリシア語のテクス
トを解するよりも、われわれのサンスクリット学者がその原典を理解する力はべつにうわまわっていな
いのではないかといった疑いが、わたしの胸にしのび寄ってくるのだ。しかしこうした学者は子供でな
く、知識も悟性もそなえた立派なおとななのだから、もちろんいろいろなまちがいが「才能しだいで」
まぎれこむことはあっても、彼らが真に理解したことから、全体としてはほぼおおよその意味は伝えて
いると思われるのだ。しばしば暗中模索のていのヨーロッパのシナ学者のシナ語ときては、はるかにひ
どいものがある。これはシナ学者のなかでいちばん徹底した学者たちでさえ、おたがいに訂正しあい、
ひどい誤謬を指摘しあっているのを見れば、このことにまちがいはないという確信が得られるのだ。こ
の種の例はアベル・レミュザの訳した『仏国記』にしばしば見いだされる。

575:名無しさん@1周年
16/11/25 13:59:17.25 8m/9PDPt0.net
>>159
捨て方ある
>>160
神道も大概だっつうか廃仏毀釈忘れんなよ

576:名無しさん@1周年
16/11/25 13:59:28.52 fm0zgv540.net
平和行為だから、無罪。
イスラムにおいては、他宗教をぶっころすのは「平和行為」。
やさしそうなイスラムも、平和行為には参加する。
まあ、レイシストだから。
他宗教をそういう目(人間以外)って目でみてんだ。
やな宗教だね。
イスラムはレイシスト。

577:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 13:59:37.66 84rB8Z/F0.net
 話かわって、アウラングズィーブの兄にあたるダーラー・シュコー回教主がインド生まれでインドの
教育を受け、しかも思索的で好奇心をもち、学問もあったから、つまりわれわれがラテン語を解する程
度にはサンスクリットを解しえたであろうし、そのうえ多数の学者を協力者としてもっていたことを考
えると、彼がウパニシャッドをペルシア語に訳させた仕事は立派なものにちがいないという思いが、なに
はさておき、わたしにはするのである。さらにわたしは、このペルシャ語をアンクティル・デュペロン
がいかにも深い、事柄にふさわしい畏敬の念をもって取り扱っているのを見る。すなわち彼はこのペル
シア訳を一語一語ラテン語に訳したのだが、ラテン語の文法を無視して、ペルシア語の文章構造を精確
に再現し、回教主が訳さないでおいたサンスクリットの単語もそのままにして、ただこれを語句註解で
説明するにとどめているのである。さてこそわたしはこのラテン語を心から信頼して読むのだが、うれ
しいことにこの信頼はただちにむくわれるのだ。なぜなら、この『ウプネカート』は完全にヴェーダの
神聖な精神を呼吸しているからだ! 勤勉に読むことによって、この比類ない書のペルシア語・ラテン
語に精通した者は、心の奥底からあの神聖な精神にとらえられるのだ! なんと一行一行が、明確に限
定された、全体的に相呼応する意味にみちみちていることか! 全体に一種の高い神聖な厳粛の気がた
だよっていながら、どの頁からも、深い、根源的な、崇高な思想がわれわれを迎えてくれるのだ。ここ
ではすべてがインドの大気と自然にかよう根源的な存在のいぶきを呼吸している。そして、おお、精神
はここで、なんとすがすがしく洗われることだろう! この精神にはやくも注入されたいっさいのユダ
ヤ的迷信、ならびにこの迷信に迎合するあらゆる哲学から洗い清められるのだ!(サンスクリットの原
典を除けば)、これはこの世で可能な最もむくわれることの多い、心をたかめてくれる読みものだ。そ
れはわたしの生涯の慰めであった。それはまたわたしの死の慰めともなろう。―『ウプネカート』が
ほんものであるかどうかに対してもちだされたある種の疑いについては、わたしの『倫理学』の二七
一頁(第二版二六八頁)の欄外注を指示しておく。
 ついでながら言っておくが、この最後の問いも、いま引用した節全体と同様、カント以後の哲学教授
連が、絶対者、つまり平たくいえば原因をもたぬものを、しょっちゅう彼らの哲学的思索の主題にする
ことを押しとどめはしなかった。これこそまさに彼らにうってつけの思想なのだ。一般にこの教授連は
救いがたい人種だ。彼らの書物や講演のために貴重な時を失わぬよう、わたしは切にすすめてやまない。
 木や石や金属から偶像をつくろうと、抽象的概念からそれをつくろうと、結局は同じだ。人格的存在
者をまえにして、それに犠牲をささげたり呼びかけたり、感謝したりすれば、とたんにそれは偶像崇拝
になる。自分の羊を犠牲にささげるか、それとも自分の気持ちをささげるかは、根本においてそれほど
違ったことではない。どんな儀式あるいは祈祷も、文句なく偶像崇拝の根拠である。だからあらゆる宗
教の神秘的宗派は、その最奥義を究めた人に対しては、いっさいの儀式を抜きにする点で、一致するの
である。

578:名無しさん@1周年
16/11/25 13:59:50.04 1/u4wE8E0.net
イスラムの国パキスタンでもこれは死刑か
まともでよかった 一部の原理主義者の暴走はどんな宗教にも付きものだ

579:名無しさん@1周年
16/11/25 14:00:00.84 zhTDRfja0.net
日本でも富山コーラン事件があっただろ?
あれも在日イスラム教徒が集まって抗議していたよ
日本で騒ぎを起こすなら出て行けよ
騒ぎを起こすイスラム教徒は出て行け
イスラム教の国で好きにしろ

580:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 14:00:01.55 84rB8Z/F0.net
 さてインドの聖典やインドの哲学者たちの著作のヨーロッパ語訳をこのデュペロン訳と比べてみて、
わたしはこれらの訳からは正反対の印象を受ける(もちろんきわめて少数の例外はある、たとえばシュ
レーゲル訳のバガヴァド・キタ、コールブルック訳のヴェーダのニ、三の個所)。これらの訳が提供す
るのは複雑な文体の文章で、その意味は一般的・抽象的であり、ときに動揺して不明確であり、その関
連もゆるく、原典をもつ思想の漠然とした輪郭しか得られず、その埋め草にはわたしはなにか異質のも
のを認める。往々、矛盾もすけて見えるし、全体として近代的で空虚・平板で味気なく、意味貧弱で西
洋的なのだ。それはヨーロッパ化され、イギリス化・フランス化され、(いちばん悪いことだが)ドイ
ツ的に霧がかかっていたりする。つまり、明確な意味のかわりに、漠然とした冗漫な言葉が提供される
だけなのだ。たとえば「インド文庫」四一号(カルカッタ、一八五三年)におけるレーアの最近の訳など
だ。これを見ると、複雑な文章を書きなれているいかにもドイツ人という感じで、はっきりしたことを
考えることは他人におまかせしているのだ。それに「ユダヤ的悪臭」もぷんぷんにおってくる。こうし
たことはすべて、この種の翻訳に対するわたしの信頼を弱めるものだが、とりわけこれらの訳者がその
勉強をパンを稼ぐためにやっていることを考えると、なおさらだ。ところが人格高潔なアンクティル・
デュペロンは訳にあたってそういう私事を求めたのではなく、学問と悟りに対する純粋な愛によって訳
業に駆りたてられたのであり、回教主ダーラー・シュコーがその報酬として得たものは、皇帝である弟
アウラングズィーブが彼の足もとにひれふしたその叩頭だけであったのだ、―「神のさらに大なる光
栄のために」。ウパニシャッドの真の知識、したがってヴェーダの真実な教義の奥義は、今日まで『ウプネ
カート』によってのみ得られるというのが、わたしの確信するところである。他の訳を読了してみても
問題の見当さえつかないのだ。そのうえ回教主ダーラー・シュコーには、イギリスの学者たちが手にし
えたよりも、はるかに良い完全なサンスクリットの写本が提供されていたと思われるのである。
  第一八五節
 ヴェーダのサンヒターは、ウパニシャッドと同じ作者の手になるものでもなく、時代も違っている可能
性がある。ローゼンの訳したリグ・ヴェーダのサンヒター第一巻とスティーヴンソンの訳にかかるサ
マ・ヴェーダのそれをあわせ読むと、そういう確信が得られる。いずれも祈祷と祭式からなっている
が、かなり素朴な星辰崇拝の趣がある。ここで呼びかけられる最高神はインドラであり、インドラとと
もに太陽・月・風・火があげられる。あらゆる讃歌をつうじ、これらのものにきわめて卑屈な追従の言
葉がささげられ、また犠牲もささげられる。牛・飲食・戦勝などに対する懇願もある。讃えられる唯一
の徳は、犠牲と、僧に施しものをすることだけである。
 オルムズド(のちにこれがエホバになった)は(J.J.シュミットによれば)もともとインドラで
あり、さらにミトラも太陽神であるから、ゾロアスター教徒の拝火はたぶんインドラとともにペルシア
人に渡ったものであろう。―ウパニシャッドは、まえにも述べたとおり、最高の人間叡智の産物であ
る。これはまた学識のあるバラモンだけがひもとくべきことになっている。だからデュペロンも「ウパ
ニシャッド」を「秘すべき神秘」(奥義書)と訳している。これに反しサンヒターは秘伝でなく、間接的
であるが一般人のためのものである。典礼、すなわちおおやけの祈祷や犠牲の儀式がその内容だから
だ。したがって、右にあげた訳から判断すると、味のない読みものだ。もちろんコールブルックも『ヒ
ンドゥー教徒の宗教的儀式について』と題する論文で、サンヒターの他の諸巻から讃歌を訳してくれて
いるが、これはウパニシャッドに似た精神のいぶきを呼吸している。とりわけ第二の論文『形をとった精
神』などにある美しい讃歌はそうで、これはわたしが第一一五節で訳出しておいたところである。

581:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 14:00:20.71 84rB8Z/F0.net
  第一八六節
 巨大な石の寺院がインドに建てられた時代には、おそらく物を書く術はまだ発明されておらず、この
寺院に住む多数の僧侶たちがヴェーダの生きた容器であったのだろう。つまりひとりひとりの僧ある
いは各派で、その一部を暗記して伝えたのである。ドゥルイド僧がやったように。のちになって、やは
りこの寺院で、したがってきわめてふさわしい環境のなかで、ウパニシャッドは起草されたのであろう。

    第一八七節
 サーンキヤ哲学は仏教の先駆とみられているが、われわれはウィルソンの完訳でイーシュヴァラ・ク
リシュナの『サーンキヤ・カーリカー』(数論頌)にこれを見ることができる。(この訳もやはり不完全
で、霧をとおして見る思いではあるが)。この哲学は、あらゆるインド哲学の主要な教義、たとえばこ
の悲しい存在から救われることが必要であるとか、行動に比例して魂が移りゆくとか、悟りこそ救済の
根本要件であるなどということを詳細に、また厳粛に説いているかぎりにおいて、興味ぶかく、また教
訓的である。インドでは数千年らい、こうした教義に心を向けることに、きわめて真剣なものがあった
のだ。
 この哲学がとかくするうちに、ひとつの誤った根本思想、すなわちプラクリティとプルシャに分か
れる絶対二元論によって台なしにされるのをわれわれは見る。これがまたサーンキヤがヴェーダからは
なれていく点でもある。
―プラクリティとは明らかに「能産的自然」であると同時に物質それ自体で
ある。すなわちいっさい形をとらないから、考えられるだけで、具体的には見ることのできない物質そ
のものなのだ。こういうふうに解釈してみると、すべてのものがそこから生まれてくる意味で、プラク
リティは「能産的自然」とまったく同一視してさしつかえない。ところでプルシャとは認識主体であ
る。なぜならこれは知覚するものであり、行動しない単なる傍観者であるからだ。ところでこの二つの
ものは、絶対的差異をもったもの、たがいに無関係なものと受けとられている。そのため、どうしてプ
ラクリティがプルシャの救済のために骨を折るのか、その説明が不十分になってくる(六〇詩節)。さ
らにプルシャの救済こそ究極の目的であるということが、全作品をつうじて説かれている。ところが
(六二、六三詩節では)とつぜん、救済されるべきはプラクリティであるとなっている。―こうした
矛盾は、プラクリティとプルシャには共通の根があるのだと仮定すれば、すべてなくなるであろう。教
祖カピラの意に反することではあるが、全体はなんといっても、そういう共通の根を示唆しているの
だ。あるいはプルシャはプラクリティのひとつの変態だと仮定してみるのだ。そうすればいずれに
しても二元論は解消することになろう。―わたしは事をわかりやすくするために、プラクリティに意
志を、プルシャに認識主体を見ざるをえない。
 サーンキヤに見られる独特なせせっこましさと形式的拘泥は、数論、すなわちあらゆる特性その他を
数えあげ番号をつけることだ。しかしこれは、仏典などにも同じ行き方が見られるから、インドでは普
通に行なわれていることのように思われる。

582:名無しさん@1周年
16/11/25 14:00:22.18 UrHqPR8l0.net
>>564
>イスラム教徒が日本で増えたら、日本人を殺したり強盗・強姦しまくる
郷に入っては郷が従えみたいな連中は日本に入れてはダメだな。
イスラム教徒の犯罪者は全員死刑にして「火葬」だな。

583:名無しさん@1周年
16/11/25 14:00:24.11 LS5yAR/oO.net
>>570
ブサイクの説法聞きにきてんじゃねーぞアンカしろやジジイ!

584:名無しさん@1周年
16/11/25 14:00:41.45 mDMrZypk0.net
な?宗教ってクソだろ

585:幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP
16/11/25 14:00:47.26 84rB8Z/F0.net
    第一八八節
 インドのあらゆる宗教に見られる輪廻の道徳的意味は、われわれが犯すあらゆる不正に対して、われ
われはつぎに生まれかわったときにつぐないをつけなければならない、というだけではなく、われわれ
がこうむるあらゆる不正は、前世におけるわれわれの非行のむくいとして、当然なものと見なければな
らない、ということでもある。

    第一八九節
 インドの四姓のうち上の三つがふたたび生まれた者とよばれる理由は、普通いわれるように、若者た
ちの成年式にあたって神聖な血統に従ってそれぞれの世襲階級に編入することが、いわば第二の誕生で
ある、ということから説明されるかもしれないが、じつは本当の理由は、前世において顕著な功績をあ
げた結果としてのみ、生まれながらにそのカーストに属するのであった、つまり前世でもすでに人間とし
て存在したのに相違ないのにひきかえ、最下層ないしは、もっと卑賤な身分に生まれた者は、前世では
畜生であったかもしれない、というにあるのだ。
 きみたちは仏教の永遠であるカルパを馬鹿にしている! ―キリスト教のとった立場からは須臾の
時が見渡せるだけだが、仏教の立場からは、無限の時間と空間のうちにあらわれてきて、その主題とな
るのだ。―
 ラリターヴィスタラもはじめは単純・自然なものであったのに、次から次へと宗教会議のたびごとに
新しく改訂されて、複雑にして驚異すべきものとなったのだ。同じことは教義自体についてもいえる。
単純・壮大なわずかな教説が、しだいに綿密に仕上げられ、空間的・時間的に叙述され、擬人化を受
け、経験的に制限されたりして、しだいに多彩・乱雑・複雑となったのだ。それというのも、それが大
衆の好みに合うからだ。大衆の精神は幻想的な仕事をほしがる。単純で抽象的なことには満足させられ
ないのである。
 バラモン教のもろもろの教義、ならびにブラームとブラーフマー、パラマートとジーヴァートマ、
ヒラニヤ・ガルバ、プラジャーパティ、プルシャ、プラクリティなどの区別は(これらについての簡潔
な叙述は、オブリのすぐれた著作『ニルヴァーナについて』インド、一八五六年に見いだされる)、つ
きつめたところ、端的に本質的に主体的存在しかもたないものを、客体的に叙述しようとする意図から
なされた神話的虚構にすぎない。だから仏陀はこうした区別を捨てて、輪廻と涅槃しか認めなかった
のだ。なぜなら教義というものは、複雑・多彩になればなるほど、神話的になるからだ。この理を最も
よく理解しているのが、ヨーガ行者あるいは遁世者(サニアッシ)だ。彼らは方法論的に自己を正して、
外にむかっている感覚のすべてを内にひきもどし、全世界を忘れ、ついには自分自身をも忘れて無念
無想となる―そのときまだ意識のなかに残っているのは、根源的本体だけというわけだ。ただしこ
れは言いやすくして行ないがたいことではある。―
 かつてあれほど栄えたヒンドゥー教徒が沈滞したのは、彼らが七百年にわたって回教徒からおそろし
い圧迫を受けたためだ。回教徒は強引に彼らを回教に改宗させようとしたのである。―今日ではイン
ド人口の八分の一だけが回教を奉じている(『エディンバラ評論』一八五八年一月号)。―

    第一九〇節
 エジプト人(エチオピア人)あるいはすくなくともその僧侶たちがインドから渡ってきたということ
を示す証拠に、テュアナのアポロニウス伝の第三巻・第二〇章、第六巻・第一一章もあげることができる。


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