元海自 at JSDF
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150:専守防衛さん
24/02/26 00:35:36.22 .net
容疑者

長岡京市内に住む少年Aが、犯行時間内に駆け足で下山していたとの目撃証言があり重要参考人となるも、実際には犯行当日は一日中別の場所にいたことが判明した。彼が空手を習っていて、よく山にサイクリングにきていることを知っている人物からの目撃情報だった。

主婦たちが殺害される1週間前に、入山していた主婦に声をかけた中年男性がおり、似顔絵も製作されたが身元は判明しなかった。

地元の不良グループに属する2名の建設作業員を重要参考人として任意で事情聴取を行った[2]。2人が昼過ぎに現場付近にいた目撃情報があり、事件翌日から仕事に精を出すなど不審な点があった。また、1人は空手の経験があった。

151:専守防衛さん
24/02/26 00:35:49.74 .net
もう一つの事件

152:専守防衛さん
24/02/26 00:36:05.41 .net
事件から約5年後、同市で主婦Cが首や背中をメッタ刺しにされた上、布団に包まれた状態で火を点けられて殺害されるという残忍な事件が発生した。警察がこの事件とワラビ採り殺人事件の関連性を調べていたことが判明して、次のような噂が出現した

153:専守防衛さん
24/02/26 00:36:18.53 .net
主婦Cはかつて最初の事件当日、主婦AやBとワラビ採りに出かけたが、先に一人で下山したので殺害から免れた。マスコミと警察は報道協定を結んで、主婦Cの安全のため彼女の存在を公表しなかった。
後日、主婦Cは何らかのトラブルでワラビ採り殺人の真犯人に殺された。

154:専守防衛さん
24/02/26 00:36:30.11 .net
ところが第二の殺人事件の警察記者会見では、最初の殺人事件と主婦Cとの関係はまったく言及されず、マスコミ関係の人物から報道協定についての証言は一切得られず都市伝説のレベルである。ただ、残った血液型はO型で右足の第二指が突出していることが判明している。この事件も同様に未解決となっている。

155:専守防衛さん
24/02/26 00:38:22.73 .net
ハーメルンの笛吹き男(ハーメルンのふえふきおとこ、独: Rattenfänger von Hameln、英語: Pied Piper of Hamelin)は、現在のドイツの街ハーメルンにおいて1284年6月26日に起きたとされる出来事についての伝承である。

グリム兄弟を含む複数の者の手で記録に残され、現代まで伝わった。

156:専守防衛さん
24/02/26 00:38:51.49 .net
1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。
ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男[注釈 1]が現れ、報酬をくれるなら町を荒らし回るネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。
男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を反故にして(笛を吹いて誘導し、川に沈めただけという簡単な仕事に対して報酬が高すぎて、納得できなかったとも)報酬を払わなかった。

約束を破られ怒った笛吹き男は「お前たちの大切なものを代わりにいただこう」と捨て台詞を吐きいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び現れた。

住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にある洞穴の中に入っていった。
そして穴は内側から岩で塞がれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。
物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残されたと伝える。

157:専守防衛さん
24/02/26 00:39:07.10 .net
歴史

158:専守防衛さん
24/02/26 00:39:12.43 .net
この物語への最初の言及は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスに見られる[1]。14世紀から17世紀にかけての複数の記録がこのステンドグラスについて述べている。このステンドグラスは1660年に破壊された。残された文献に基づいて、ハーメルンの郷土史家ハンス・ドバーティンにより現在のステンドグラスが復元された。このステンドグラスは、色鮮やかな衣装を纏った笛吹き男と、白い着物姿の子供たちを特徴としている。

このステンドグラスには以下に記す説明文が添えられていた。

159:専守防衛さん
24/02/26 00:39:26.06 .net
Anno 1284 am dage Johannis et Pauli
war der 26. junii
Dorch einen piper mit allerlei farve bekledet
gewesen CXXX kinder verledet binnen Hamelen gebo[re]n
to calvarie bi den koppen verloren
— URLリンク(www.triune.de)

160:専守防衛さん
24/02/26 00:39:44.13 .net
1284年、聖ヨハネとパウロの記念日
6月の26日

色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に

130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され

コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった

161:専守防衛さん
24/02/26 00:40:01.19 .net
このステンドグラスは、ハーメルン市の悲劇的な史実を記念して制作されたと一般には考えられている。また、ハーメルン市の記録はこの事件から始まっている。ハーメルンの最古の記録は、1284年の出来事を起点にした年代記として述べられている。

「 我らの子供達が連れ去られてから10年が過ぎた[2]。 」
何世紀にもわたる調査にもかかわらず、笛吹き男の物語に隠された歴史的な出来事についての明確な説明は与えられていない。いかなる調査結果においても、1559年頃に初めて物語にネズミの集団発生が追加されており、それ以前の記録ではネズミは登場しない

162:専守防衛さん
24/02/26 00:40:13.25 .net
伝説の起源に関する仮説

163:専守防衛さん
24/02/26 00:40:29.75 .net
この伝承の背後に潜む意味を説明するために、多数の説が提出されてきた。 ヴォルフガング・ヴァンはそれらを、舞踏病、移住、子供の十字軍、巡礼、作り話、溺死、山崩れ、誘拐、戦死、疫病など25種類に分類しており、解釈は様々である。

最も広く支持されている説は[3][4] 、子供達は東ヨーロッパのドイツ人植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説である。この時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられる。この主張は、Querhameln(ハーメルン製粉村)のような、ハーメルンと東方植民地周辺の地域それぞれに存在する、対応する地名によって裏付けられている。この説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている。

この説のバージョンの一つは1955年に『サタデー・イブニング・ポスト』誌で発表された[5]。植民説の裏付けとなるのは、ハーメルンの旧家の壁から発見された文章である。その述べるところによれば、1284年6月26日に、笛吹き男が130人の子供を街の外へ連れ去り、おそらくはその笛吹き男はモラヴィア(現在のチェコ共和国の一地方)への植民運動を組織していたオロモウツの司教ブルーノ・フォン・シャウンブルクの代理人であったという[6][7]。シャウンブルク司教自身もまたボヘミア王オタカル2世の代理人として行動していた[8]。

164:専守防衛さん
24/02/26 00:40:46.65 .net
更なる考察を加えれば、植民説は13世紀のドイツ地域はあまりにも多くの人口を抱え込んでいたため、長男のみが土地と権力の全てを相続し、他の者は農奴となるしかなかったとの考え方に基づいている[9]。後に黒死病がこの不均衡を破壊した[9]。

165:専守防衛さん
24/02/26 00:40:59.13 .net
また、子供の移民が記録されていない理由の一つとしては、子供達は東ヨーロッパのバルト地方からやって来た植民請負人(英語版)に売られたためであるとの説が提言されている(児童売買は当時は珍しい慣習ではなかった)。エッセイ『笛吹き男・再論』Pied Piper Revisited において著者シェイラ・ハーティーは、東方植民地に見られる姓とハーメルンで見られる姓は類似しており、ハーメルンの街で養育できなかった私生児や孤児、その他の児童が売られたというのは納得のいく説明であると述べている。更にハーティーは、これがハーメルン町史におけるこの事件の記録の欠落への説明になるかもしれないと述べる[2]。ヴォルフガング・ミーダーは自著『笛吹き男ハンドブック』The Pied Piper: A Handbook において、ハーメルンを含む地方の人々がトランシルヴァニアの一部への移民を支援した事を示す歴史的文書が存在すると述べている[10]。トランシルヴァニアはモンゴルによる中央ヨーロッパ侵略を受けており、その時期は笛吹き男伝説が歴史に現れる時期と前後している。

ハーメルン市の公式ウェブサイトに掲載されている笛吹き男伝説のバージョンでは、移民説の別の側面が提示されている。

166:専守防衛さん
24/02/26 00:41:15.05 .net
様々な解釈の中で、低地ドイツ地方から出発した東ヨーロッパへの移民説がもっとも説得力のある解釈である。「ハーメルンの子供たち」とは、モラヴィア、東プロイセン、ポメルン、チュートン地方への移住を募集する地主達により、移民の意思を抱いていた当時のハーメルン市民の事だったのであろう。過去の時代には、現代でもしばしば行われているように、町の住民全てが「○○の子供達」あるいは「○○っ子」と呼ばれていたのだと推測される。やがて「子供達の集団失踪の伝説」は「ネズミ駆除の伝説」に統合された。この伝説はまず例外なく、中世の製粉所のある町の最大の脅威であったネズミの集団発生と、時には成功を収め時には失敗する職業的ネズミ駆除人について述べている
— The Legend of the Pied Piper Rattenfängerstadt Hameln September 3. 2008 参照

167:専守防衛さん
24/02/26 00:41:28.76 .net
この解釈では、「子供達」とは単に移民の道を選んだハーメルンの住民のことであり、特に若年層の事を指していた訳ではないのだろうと述べられている。

168:専守防衛さん
24/02/26 00:41:41.70 .net
言語学者ユルゲン・ウドルフの研究を出典として、歴史学者のウルズラ・ザウターは移民説の根拠となる以下の仮説を述べている。

169:専守防衛さん
24/02/26 00:41:57.37 .net
「1227年にボルンホーフェトの戦いにおいてデンマーク軍を撃ち破った後」とウドルフは説明する。「スラブ民族が住んでいた南バルト海沿岸がドイツの植民地として利用可能になった」。ポメルン、ブランデンブルク、ウッカーマルク、プリクニッツの司教や公爵達は、口先の巧みな「ロカトール」、すなわち中世期における植民請負人を送り出し、新天地への移住を望んでいた人々に高収入を約束した。数千人に及ぶ若者が低地ザクセンとヴェストファーレンを後にして東に向かった。その証拠となるのは、東方植民地に見られる1ダースものヴェストファーレン由来の地名である。事実、ヴェストファーレンからポメルンに至る街道にはヒンデンブルクと呼ばれる村が5ヵ村、同じく東シュピーゲルベルクと呼ばれる村が3ヵ村あり、ハーメルン南のベフェルンゲンに由来するベルリン北西のベフェリンゲン、現代のポーランドにあるベヴェリンゲン等の地名が存在する
— Ursula Sautter, "Fairy Tale Ending." Time International, April 27, 1998, p. 58.

170:専守防衛さん
24/02/26 00:42:08.88 .net
ウドルフはハーメルンの若者達が現在のポーランドまで移住したとの仮説を提示している[11]。系図学者のディック・イーストマンは、ウドルフのハーメルン出身の姓がポーランドの電話帳にも見られるとの研究を引用する。

171:専守防衛さん
24/02/26 00:42:46.04 .net
言語学教授のユルゲン・ウドルフの述べるところでは、1284年の6月にドイツの村ハーメルンから130人の子供達が消失した。ウドルフ教授は当時のハーメルンの村で知られていた全ての姓を記録し、それと一致する外部の姓を探し始めた。どちらもベルリン北部途上にあるプリクニッツとウッカーマルクに驚くほど頻繁にハーメルンと同じ姓が現れるのを教授は見出した。彼はまた現代のポーランドの一部であるかつてのポメルン地方にも同じ姓があるのを発見した。

172:専守防衛さん
24/02/26 00:43:02.97 .net
ハーメルンから消えた子供達とは、実際のところは東ヨーロッパへの移民を募集するドイツ植民運動に利用された職の無い若者達であったのだと、ウドルフは推測する。伝説の笛吹き男などは実在しなかったのかもしれないが、教授はこうも述べる。「東方への植民者を募るためにドイツ北部を歩き回っていたロカトール(Lokator、植民請負人)なる者達がいた」。ロカトールはいずれも弁舌巧みであり、ある者は鮮やかな衣装で着飾っていた。ハーメルンからの脱出は、デンマークが東ヨーロッパの支配権を失った1227年のボルンホーフェトの戦いに関連しているのかもしれないと、ウドルフ教授は示唆している。これによりドイツ植民への道が開かれ、13世紀後半には身体壮健な若者らをブランデンブルクやポメルンに連れてこようとする組織的な試みが行われた。教授の姓名や町名の調査に従えば、この移民運動は現代のポーランド北西部にあるスタロガルト近辺まで到達した。一例を挙げれば、ハーメルン付近の村ベフェルンゲンには、ベルリン北部やプリツヴァルク付近のベフェリンゲンや、スタロガルト付近のベヴェリンゲン等の対応する地名が存在する。

173:専守防衛さん
24/02/26 00:43:08.33 .net
ポーランドの電話帳には当地で予想されるような典型的なスラヴ名ではなく、13世紀のハーメルンの村で一般的であったようなドイツ由来らしき姓が多数列記されている。事実、今日のポーランドの電話帳には、Hamel、Hamler、Hamelnikow と言った、ハーメルンに由来を持つと思われる姓が掲載されているのである
— Eastman's Online Genealogy Newsletter: A Weekly Summary of Events and Topics of Interest to Online Genealogists Vol. 3 No. 6 – February 7, 1998 Ancestry Publishing — Pied Piper of Hamelin. September 5, 2008 参照

174:専守防衛さん
24/02/26 00:43:21.63 .net
別の説として

175:専守防衛さん
24/02/26 00:43:33.85 .net
子供達は何らかの巡礼行為か軍事行動、あるいは新規の少年十字軍運動(少年十字軍運動は1212年というこの事件のやや過去に起こっている)の一環として町から去り、二度と両親の元へ戻らなかったとする説がある。18世紀後半から20世紀前半まで広く信じられていたのは、1734年にヨーハン・クリストフ・ハーレンベルクが唱えた、1260年のゼデミューンデの戦いで壊滅したハーメルン市民軍の記憶が変形し、笛吹き男に引き連れられた130人の子供達となったとの説である。1940年にハインリッヒ・シュパヌートが執筆した『ハーメルン市史』Geschichte der Stadt Hameln では、ハーレンベルクや1741年のレーガーの解釈に基づき、この説が採用されている[12]。これらの説では、名前のない笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと見なされている。

176:専守防衛さん
24/02/26 00:43:46.74 .net
ハーメルンの新門にあるラテン語の碑文には、この笛吹き男の正体はマグス(魔法使い)であったと刻まれている。いくつかの説では、子供たちは何らかの自然的要因により死亡したのであり、笛吹き男は死神の象徴であったとされている。死神はしばしば笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で描かれる。この説に関連付けられる類似のテーマとして、子供達の行進は中世ヨーロッパの基本的な美術様式である死の舞踏の表現であるとの説がある。自然要因説に含まれるいくつかの説として、子供たちはヴェーザー川で溺死したとする説、土砂崩れにより死亡したとする説、流行病により病死したとする説がある。

177:専守防衛さん
24/02/26 00:44:02.08 .net
ウィリアム・マンチェスターの『炎のみに照らされた世界』(A World Lit Only by Fire, 1992) は、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったと述べている。マンチェスターはこの事件が起こったのは1484年の6月20日であり、この犯罪者はハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、「口に出して言うのも憚られる目的」に用いたのだと断言している。更にマンチェスターは「ある子供達は二度と姿を見せず、ある子供たちは五体バラバラにされて、森の繁みの中や木の枝から吊り下がっている所を発見された」と付け加える。しかし、マンチェスターがまことしやかに述べ立てる事件を裏付けるような資料は一切発見されておらず、彼は事実と断言するこの説に対して出典を提示していない。マンチェスターの説は、少なくともその120年以前から現れている物語のバージョンを無視している[13]。

178:専守防衛さん
24/02/26 00:44:16.06 .net
14世紀のデカン・リューデによる合唱書

179:専守防衛さん
24/02/26 00:44:35.98 .net
1384年頃に、ハーメルンのデカン・リューデなる人物が、彼が所持する合唱書『パッシオナーレ』に笛吹き男事件の目撃証言であるラテン語詩が含まれていると書き記している[14][15]。リューデの記すところでは、このラテン語詩はリューデの祖母により執筆された。この合唱書は17世紀後半以降は失われたままであると考えられている。あるいはデカン・リューデ (Decan Lude) という奇妙な名前は、彼がルードヴィヒ(Ludwig)という名の司祭長(ラテン語で decanus、現代ドイツ語では Dekan あるいは Dechant)の地位に就いていた僧侶である事を示す物である可能性もあるが、これは確認されていない

180:専守防衛さん
24/02/26 00:44:46.68 .net
15世紀のリューネブルク写本

181:専守防衛さん
24/02/26 00:45:04.27 .net
1430年から1450年頃に残されたリューネブルクの写本は、笛吹き男事件の早期におけるドイツ語の記録を伝えている[16]。リューネブルク写本は現存する最古の記録であると考えられる。

ハーメルンの街を東西に貫くオスター通りの東門近くには、「笛吹き男の家」に隣接する形で、消失した子供達への追悼の念を込めて、歌ったり音楽を奏でることが禁止されている舞楽禁制通り(Bungelosestrasse、ブンゲローゼシュトラーセ)が設けられている。
音楽の演奏を伴うパレードは結婚式の行列も含め、この通りに差し掛かったところで演奏を中断し、通りの反対側に達したところで演奏を再開する。この通りの名は、1427年には既に現れている。

182:専守防衛さん
24/02/26 00:45:14.75 .net
16世紀および17世紀の資料

183:専守防衛さん
24/02/26 00:45:56.59 .net
1556年に、神学者ヨプス・フィンツェリウスによる De miraculis sui temporis(ラテン語で『現代の不可思議について』の意味)が、この伝説に言及している。著者ヨプスは、笛吹き男を悪魔と見なしている。

1559年から1565年頃に、フローベン・クリストフ・フォン・ツィンメルン伯爵は自著『ツィンメルン年代記』Zimmerische Chronik の中でこの伝説を紹介した。この紹介がネズミの集団発生が登場した最初の記録だと考えられている。しかし、ツィンメルンはこの出来事の日付を「何百年も昔 (vor etlichen hundert jarn)」と記しているのみであり、事件のあった日付に関する論争に全く解答を与えていない[17]。

184:専守防衛さん
24/02/26 00:46:13.80 .net
最初の英語による記述は、オランダ系の古物収集家にして宗教論争家であったリチャード・ローランド・ヴェルステガン(1548年頃-1636年)による、 『腐朽した知識の復権』 Restitution of Decayed Intelligence (アントウェルペン、1605年)の中に見られる。しかしヴェルステガンは物語の出典を示していない(ツィンメルンの手稿は1776年になってから再発見されており、ヴェルステガンの出典とはなりえない)。ヴェルステガンの記述はネズミの群れについての言及と、行方不明になった子供達がトランシルヴァニアに現れたという考察を含めている。英語の成句 Pied Piper (まだら服の笛吹き男)は、ヴェルステガンによる造語であると考えられる。より興味深いことに、ヴェルステガンによる事件の日付は、上の記述とは全く異なる1376年の7月22日となっている。これは1284年に行われた移民という事件と、1376年のネズミの集団発生という事件の二つの出来事が統合された事を示唆するのかもしれない。

185:専守防衛さん
24/02/26 00:46:26.70 .net
笛吹き男の物語は日付を違えた形で、ロバート・バートンの1621年の著作『憂鬱の解剖』The Anatomy of Melancholy でも超自然現象の一例として紹介された。「1484年6月20日に、ザクセンのハーメルンで、まだら服の笛吹き男の姿をした悪魔が130人の子供たちを連れ去り、子供達は二度と見つからなかった」。バートンはこの話の直接の出典は提示していない。

アタナシウス・キルヒャーの1650年の著作『普遍音楽』Musurgia universalisでもこの出来事について詳細に紹介され、情報源としてヨハン・エウセビウス、コルネリウス・ゲンマの著作が挙げられている。

186:専守防衛さん
24/02/26 00:46:52.54 .net
ヴェルステガンの文章はナサニエル・ウォンリーの『小世界の驚異』Wonders of the Little World(1687年)に転載され、ウォンリーの著書を直接の出典として19世紀のブラウニングの詩が書かれた。ヴェルステガンの記述はウィリアム・ラメゼイの『虫食いの話』Wormesにも転載された。「(前略)ヴェルステガンの物語で最も注目に値するのはまだら服の笛吹き男の話であり、この男は1376年7月22日にザクセンのハーメルンの町から160人の子供を連れ去った。悪魔の怒りに対して、神が不思議にも許可を与えたのだ」。

187:専守防衛さん
24/02/26 00:47:04.67 .net
19世紀の物語

188:専守防衛さん
24/02/26 00:47:28.60 .net
1803年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが、この伝説に基づいた詩を著した(この詩はフランツ・シューベルトの『鼠捕りの男』と、フーゴー・ヴォルフの『鼠捕りの男』として、それぞれ歌曲にされている)。

189:専守防衛さん
24/02/26 00:47:49.05 .net
Ich bin der wohlbekannte Sänger,
der vielgereiste Rattenfänger,

den diese altberümte Stadt
Gewiß besonders nötig hat.

Und wären' s Ratten noch so viel,

und wären Wiesel mit im Spiele:

von allen säub'r ich diesen Ort,
sie müssen miteinander fort.

190:専守防衛さん
24/02/26 00:48:35.15 .net
Dann ist der gutgelaunte Sänger

mitunter auch ein Kinderfänger,

der selbst die wildesten bezwingt,

wenn er die goldnen Märchen singt.


Und wären Knaben noch so truzig,

und wären Mädchen noch so stuzig:
in meine Saiten greif ich ein,

sie müssen alle hinterdrein.

191:専守防衛さん
24/02/26 00:49:00.72 .net
Dann ist der vielgewandte Sänger
gelegentlich ein Mädchenfänger;


in keinem Städtchen langt er an,

wo er's nicht mancher angetan.

Und wären Mädchen noch so blöde,

und wären Weiber noch so spröde,

doch allen wird so liebebang
bei Zaubersaiten und Gesang.

— Johann Wolfgang von Goethe、Der Rattenfänger

192:専守防衛さん
24/02/26 00:49:32.64 .net
また、ゲーテはファウスト伝説の彼によるバージョン(『ファウスト』)の中にも、この物語への言及を組み込んだ。

この詩劇の第一部は1808年に出版され、次いで第二部が1832年に出版された。

グリム兄弟の2人として知られているヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムは、

1816年に出版された民話集『ドイツ伝説集』Deutsche Sagen の中に、1586年から1814年までに出版された書物を典拠にして [18]この物語を語った。グリム兄弟の記述では、
「ある説によれば」(wie einige sagen)と断ったうえで、「盲目の子と口のきけない子の2人が後から帰って来てこの話を伝えたという。

また他の説によれば、1人の男の子が上着を取りに帰って来てこの出来事を伝えたという」(蚊野千尋)。「ある説によれば 、子どもたちはジーベンビュルゲン(現ルーマニア)で再び姿を現したという」[19]。

193:専守防衛さん
24/02/26 00:49:48.83 .net
ヴェルステガン及びウォンリーの記録を資料として、ロバート・ブラウニングはハーメルンの笛吹き男の名を題に冠した詩を執筆し、1842年に公表した。ブラウニングの詩は、事件の日付を1376年の7月22日であるとしている。

194:専守防衛さん
24/02/26 00:50:05.82 .net
日本での受容

195:専守防衛さん
24/02/26 00:50:23.08 .net
この物語は、ドイツ国外にはグリム童話とともに伝わっていったと思われる[要出典]。日本でも翻訳され子供を含む幅広い層に知られている。しかし「笛吹きが子供をさらい、子供達は二度と戻って来なかった」という結末は、少なくとも児童向けの書籍では改変されることも多い。

主だった改作としては、笛吹きが子供達を洞窟に閉じ込めたことに対して市長や親達が笛吹きに解放を懇願した(その結末は明示されていないが、市長の約束履行で子供達が解放されたことを暗示)。別の改変においては笛吹きには子供達に危害を加えようとする意思は見受けられず、最終的に市長から約束履行を受けた上、住民から感謝されつつ街を去っている。あるいは子供を集めようとして未遂、集めたが何らかの外部要素(作品によって異なる)によって解放される勧善懲悪物として改変されているものもある[20]。また改変されなくても「こどもたちは嘘つきや意地悪な人がいない幸せな国に行った」などハッピーエンドとも解釈できるような結末になっている場合もある。日本で平成期に出版された62話に精緻な分析を施した蚊野千尋は、話に盛られた教訓がこの間、「約束を破ってはいけない」から「嘘をついてはいけない」に変えられている、と結論づけた[21]。

196:専守防衛さん
24/02/26 00:50:59.54 .net
この物語は、ドイツ国外にはグリム童話とともに伝わっていったと思われる[要出典]。日本でも翻訳され子供を含む幅広い層に知られている。しかし「笛吹きが子供をさらい、子供達は二度と戻って来なかった」という結末は、少なくとも児童向けの書籍では改変されることも多い。

主だった改作としては、笛吹きが子供達を洞窟に閉じ込めたことに対して市長や親達が笛吹きに解放を懇願した(その結末は明示されていないが、市長の約束履行で子供達が解放されたことを暗示)。別の改変においては笛吹きには子供達に危害を加えようとする意思は見受けられず、最終的に市長から約束履行を受けた上、住民から感謝されつつ街を去っている。あるいは子供を集めようとして未遂、集めたが何らかの外部要素(作品によって異なる)によって解放される勧善懲悪物として改変されているものもある[20]。また改変されなくても「こどもたちは嘘つきや意地悪な人がいない幸せな国に行った」などハッピーエンドとも解釈できるような結末になっている場合もある。
日本で平成期に出版された62話に精緻な分析を施した蚊野千尋は、話に盛られた教訓がこの間、「約束を破ってはいけない」から「嘘をついてはいけない」に変えられている、と結論づけた[21]。

197:専守防衛さん
24/02/26 00:51:22.69 .net
この物語は、ドイツ国外にはグリム童話とともに伝わっていったと思われる[要出典]。日本でも翻訳され子供を含む幅広い層に知られている。しかし「笛吹きが子供をさらい、子供達は二度と戻って来なかった」という結末は、少なくとも児童向けの書籍では改変されることも多い。


主だった改作としては、笛吹きが子供達を洞窟に閉じ込めたことに対して市長や親達が笛吹きに解放を懇願した(その結末は明示されていないが、市長の約束履行で子供達が解放されたことを暗示)。

別の改変においては笛吹きには子供達に危害を加えようとする意思は見受けられず、最終的に市長から約束履行を受けた上、住民から感謝されつつ街を去っている。あるいは子供を集めようとして未遂、集めたが何らかの外部要素(作品によって異なる)によって解放される勧善懲悪物として改変されているものもある[20]。

また改変されなくても「こどもたちは嘘つきや意地悪な人がいない幸せな国に行った」などハッピーエンドとも解釈できるような結末になっている場合もある。日本で平成期に出版された62話に精緻な分析を施した蚊野千尋は、話に盛られた教訓がこの間、「約束を破ってはいけない」から「嘘をついてはいけない」に変えられている、と結論づけた[21]。

日本のある医学者は、当時収容されて、消されたハンセン病患者を意味しているのではないかと主張している[22]。

198:専守防衛さん
24/02/26 00:51:34.06 .net
日本における派生作品

199:専守防衛さん
24/02/26 00:52:07.09 .net
編集
二階堂黎人『人狼城の恐怖』 - 冒頭でハーメルンの笛吹き男と人狼伝説について言及されている。
大崎善生『存在という名のダンス』 - 2007年〜2009年に『野性時代』にて連載。北海道を舞台に、ハメールーンの笛吹き男が、人類最強の敵(ゲルミナンド・ヘステ)として描かれている。
藤木稟『ハーメルンに哭く笛』 - 30人もの子供たちが一度に誘拐・殺害され、容疑者として上がった男の供述に「ハーメルンの笛吹き男が現れ、子供たちを連れ去った」がある。実際物語の重要なキーワードであり、登場人物達の会話の中で笛吹き男の歴史的解釈もなされている。
グループSNE『百鬼夜翔』 - 「真夜中の道化師」に、笛吹き男のイメージから生まれた妖怪道化師が登場、子供達を連れ去ろうとする。

200:専守防衛さん
24/02/26 00:52:11.69 .net
ドラマ
編集
『相棒』2002年 season1エピソード9-杉下右京の大学時代の後輩の会社で経理部の人間15人が同じ瞬間に仕事場を放棄、謎の奇行をはたらく、その隙に金庫から大金が盗まれる、防犯ビデオには“催眠術”にかかったように社員が集団で席を立ち上がって去っていくのであったー。事件暗示に使われた呪文にパイドパイパー(Pied Piper)が使われている。
『砂の塔〜知りすぎた隣人』 - 2016年。劇中で起こる児童連続誘拐事件を、ハーメルンの笛吹き男に準えて「ハーメルン事件」と称している。これは誘拐事件の犯人が、犯行の際に口笛を吹いていることからも由来している。

201:専守防衛さん
24/02/26 00:52:33.55 .net
出典
編集
^ 桜沢正勝・訳『グリム ドイツ伝説集(上)』人文書院、1987年、P.286頁。
^ a b Shiela Harty Pied Piper Revisited, Essay published in: David Bridges, Terence H. McLaughlin, editors Education And The Market Place Page 89, Routledge, 1994 ISBN 0750703482
^ Nobert Humburg, Der Rattenfänger von Hameln. Die berühmte Sagengestalt in Geschichte und Literatur, Malerei und Musik, auf der Bühne und im Film. Niemeyer, Hameln 2. ed. 1990, p44. ISBN 3-87585-122-6
^ Jürgen Udolph, Zogen die Hamelner Aussiedler nach Mähren? Die Rattenfängersage aus namenkundlicher Sicht, in: Niedersächsisches Jahrbuch für Landesgeschichte 69 (1997), pp125–183, here p126. ISSN 0078-0561

202:専守防衛さん
24/02/26 00:52:56.64 .net
^ "What happened to these children?", Saturday Evening Post, December 24, 1955
^ [1] Poag, James F. "Pied Piper of Hamelin." World Book Online Reference Center. 2008. 4 September 2008 参照

^ German Traditions The Pied Piper of Hamelin — Goethe-Institut Dublin. Accessed September 5, 2008 参照


^ GERMAN-BOHEMIAN Mailing List Laurences question: RootsWeb Mon,
13 March 2006 10:12:12 -0800 "
Furthermore, The German areas had been colonized in a big way since 1254 AD on behest of the Bohemian King Ottokar II and his faithful servant the good Bishop of Olmuetz

Olomouc)Bruno von Schaumburg who helped him settle the North Eastern part of Bohemia and Moravia." September 5, 2008 参照

203:専守防衛さん
24/02/26 00:53:11.80 .net
^ a b The Black Death in Egypt and England: A Comparative Study, Stuart J Borsch, University of Texas Press 2005, ISBN 0-292-70617-0
^ Wolfgang Mieder, The Pied Piper: A Handbook Page 67, Greenwood Press, 2007 ISBN 0313334641 - Google books により September 3, 2008 参照
^ Twist in the tale of Pied Piper's kidnapping by Imre Karacs, Independent, The (London), January 27, 1998. Online version Provided by ProQuest Information and Learning Company — September 5, 2008 参照
^ 阿部、pp63-64
^ Jerry Langton Rat: How the World's Most Notorious Rodent Clawed Its Way to the Top Page 120, Macmillan, 2007 ISBN 0312363842
^ 阿部、pp.29

^ Willy Krogmann Der Rattenfänger von Hameln: Eine Untersuchung über das werden der sage Page 67 Published by E. Ebering, 1934. Original from the University of Michigan — Digitized June 12, 2007 Google Books により September 3, 2008 参照

204:専守防衛さん
24/02/26 00:53:31.64 .net
^ www.triune.de
^ F.C. von Zimmern [attr.]: Zimmerische Chronik, ed. K. A. Barack (Stuttgart, 1869), vol. III p.198-200
^ Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd.1. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN
3-424-01177-0) , S. 309, Anmerkung zu 245.
^ 蚊野千尋「平成期の日本における「ハーメルンの笛吹き男」」〔野口芳子編『グリム・メディア・対話 ―変容し活用されるドイツの民間伝承―』日本独文学会研究叢書 151号、2022年10月8日発行。日本独文学会ウェブサイト電子版。3-30頁、引用は4-5頁〕- Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd.1. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0) , S. 216-218.
^ 小学館オールカラー版『世界の童話30 外国の絵話』

^ 蚊野千尋「平成期の日本における「ハーメルンの笛吹き男」」〔野口芳子編『グリム・メディア・対話 ―変容し活用されるドイツの民間伝承―』日本独文学会研究叢書 151号、2022年10月8日発行。日本独文学会ウェブサイト電子版。3-30頁、特に28頁〕

205:専守防衛さん
24/02/26 00:53:50.17 .net
^ 『ハーメルンの「鼠捕り男」-感染症の立場から-』日本医事新報 4185, 39-41, 2004-7-10
^ 『幻想と怪奇3』(ハヤカワ文庫NV、1978年)など。
^ “【公演終了!】劇団ひまわりミュージカル「The Hameln」大阪公演”. 劇団ひまわり公式サイト:俳優養成所. 2021年7月22日閲覧。
^ “劇団ひまわりミュージカル「ハーメルンの笛吹き男」大阪公演”. 劇団ひまわり公式サイト:俳優養成所. 2021年7月22日閲覧。
^ “【公演終了しました!】2018年5月5日(土)・6日(日)新潟エクステンションスタジオ公演「ハーメルンの笛吹き男2018」開催!”. 劇団ひまわり公式サイト:俳優養成所. 2021年7月22日閲覧。

206:専守防衛さん
24/02/26 00:54:10.11 .net
日本国外の失踪事件

207:専守防衛さん
24/02/26 00:54:27.58 .net
ベンジャミン・バサースト- 1809年にイギリス大使。在オーストリア特命全権公使に任命されたが、同年11月にブダから帰国する道中、ペルレベルクで失踪。
フランクリン遠征 - 1845年、北西航路探検に向かったが全隊員129名が失踪。後の捜索・調査により全員が死亡したと推測される。
メアリー・セレスト号 - 1872年12月4日 船に乗っていた乗組員と乗客が失踪。以後行方不明。
畝傍 - 1886年12月3日、シンガポールを出港後失踪。現在まで船体および乗員の発見には至っていない。
ルイ・ル・プランス - 1890年9月16日、ディジョンからパリに向けて列車で移動中に失踪。
アイリーン・モア灯台事件 - 1900年12月、スコットランド・フラナン諸島のアイリーン・モア島灯台の灯台守3人が失踪。
ワラタ - 1909年、ダーバンからケープタウンに向け航行中に失踪。現在まで船体および乗員乗客の発見には至っていない。
ルドルフ・ディーゼル - 1913年9月29日、イギリス海峡上の船で失踪。海に転落死したものと推測される。
アンブローズ・ビアス - 1913年12月26日以降、メキシコで失踪。
セルティックウッドの怪- 1917年10月9日、オーストラリア陸軍の将兵71名が、痕跡を残さずに失踪した。
サイクロプス - 1918年3月、バミューダトライアングルで失踪。現在まで船体および乗員の発見には至っていない。

208:専守防衛さん
24/02/26 00:54:44.25 .net
キャロル・ディアリング号 - 1921年1月、船に乗っていた乗組員が失踪。以後行方不明。
ジョージ・マロリー、アンドリュー・アーヴィン - 1924年6月8日、エベレストで失踪。1999年にマロリーの遺体発見。
アガサ・クリスティ - 1926年12月3日失踪、同年12月14日発見。詳細はアガサ・クリスティ#失踪事件を参照。
ロアール・アムンセン - 1928年、北極を飛行機で探検中近くで遭難。機体の一部は発見されたが、現在まで遺体の発見には至っていない。
ジョセフ・クレーター - 1930年8月6日、ニューヨークで失踪。
蔵本書記生失踪事件 - 1934年6月8日、南京で失踪、同年6月13日発見。
アメリア・イアハート - 1937年7月2日、太平洋上ハウランド島、もしくはキリバスのニクマロロ島近くで失踪。
エットーレ・マヨラナ - 1938年3月27日、ナポリ・パレルモ間の船上で失踪。
中国兵士集団失踪事件 - 1939年12月10日、3000人の中国兵が忽然と姿を消した事件。兵士達の行方は、今もって明らかではない(事件そのものが実話なのかを含めて謎が多い)。

209:専守防衛さん
24/02/26 00:54:59.88 .net
レディ・ビー・グッド - 1943年4月4日、爆撃任務から戻らず失踪。1958年リビア砂漠にて機体発見、後に搭乗員の遺体も発見された。
ラウル・ワレンバーグ - 1945年1月16日、ハンガリー・ブダペストでソ連軍の司令部に向かった後失踪。ソ連軍により処刑された可能性が高いとされている。1947年に病死したとの資料もあるが、それ以降の目撃もあるとされる。
鹿野忠雄 - 1945年7月15日、ボルネオ島で失踪。
岸本綾夫 - 1945年11月28日、撫順にて人民解放軍に連行された後消息不明。1946年死去とされる。
斎藤弥平太 - 1946年5月14日、中国東北部(旧満州)にて紅軍に抑留された後消息不明。1953年死亡宣告。
ダグラスC-54D行方不明事件 - 1950年1月26日、 アメリカ・アラスカ州からモンタナ州に向かっていた輸送機が失踪。現在まで機体および乗員の発見には至っていない。
ジョージア・ウェックラー-1947年5月1日、ウィスコンシン州フォート・アトキンソンで自宅への帰り道で失踪した8歳女児。数日前から本人が家族に誘拐される事を恐れているという発言をしていた。目撃証言から金髪の若い男性が容疑者だが、失踪現場でエド・ゲインの愛車の黒いセダンが目撃されていた為ゲインも容疑者疑惑を受けた。

210:専守防衛さん
24/02/26 00:55:14.19 .net
エヴリン・ハートリー-1953年10月24日、ウィスコンシン州ラクロス群でベビーシッターとして1人で留守番をしていた教授宅で致死量の血痕と眼鏡と靴を残して失踪した15歳の女子高生。家に侵入して来た空き巣狙いの犯人にレイプ目的か又は顔を見られた口封じ目的で誘拐されたか、最初からレイプ目的で侵入した犯人に誘拐・殺害された事が濃厚で数日後に死亡宣言。後日、近くの高速道路下で彼女の白いパンティーとブラジャーのみが発見されている。失踪した当日、エド・ゲインが現場近くの親戚宅を訪ねていた事から容疑者疑惑を受けた。
辰和丸 - 1954年5月11日、南シナ海で失踪。現在まで船体および乗員の発見には至っていない。台風に巻き込まれたとされる。
メアリー・ジェーン・バーカー事件 - 1957年2月25日、ニュージャージー州で4歳の少女が失踪し、数日後に近隣の空家のクローゼットの中で遺体となって発見された。事故でクローゼットの中に閉じ込められて餓死したと考えられている。
辻政信 - 1961年4月21日以降、ラオスで失踪、1968年死亡宣告。現地で銃殺されたともいわれているが未確認。

211:専守防衛さん
24/02/26 00:55:28.55 .net
マイケル・ロックフェラー - 1961年11月17日、ニューギニア島・イリアンジャヤで研究中に失踪。現地の首狩り族に殺害されたとの説もある。
フライング・タイガー・ライン739便失踪事故 - 1962年3月16日、 アメリカ本土から南ベトナムに向かっていた旅客機がグアムとフィリピンとの間を飛行中に失踪。機体が発見できなかったため真相不明。
フランク・モリス - 1962年6月11日、受刑者である。2人の囚人とともに自作のいかだを使って脱獄不可能とされたアルカトラズ連邦刑務所から脱獄。以後消息不明。
メフディー・ベン・バルカ - 1965年10月29日、フランス・パリで失踪。
ジム・トンプソン - 1967年3月26日、マレーシアで失踪。
ハロルド・ホルト - 1967年12月17日、オーストラリア・メルボルンの海で遊泳中に失踪。2005年、現地の検視官により水死したものと最終判断された。
ドナルド・クローハースト - 1969年7月1日頃、ヨットによる世界一周航海中に大西洋上で失踪。船に遺された日誌から、精神的に錯乱し大西洋に投身自殺したものと判断された。現在に至るまで遺体は発見されていない。

212:専守防衛さん
24/02/26 00:55:47.08 .net
一ノ瀬泰造 - 1973年11月、カンボジアのアンコール・ワットに単身で出向き消息不明。1982年に共産主義勢力に処刑されていたことが判明。
ジミー・ホッファ - 1975年7月30日、アメリカ合衆国・デトロイトの自宅を出た後失踪。
フレデリック・ヴァレンティッヒ失踪事件 - 1978年10月21日、セスナ機でムーラビンからキング島へ向かう途中、バス海峡上空で失踪。現在に至るまで遺体は発見されていない。
シャーガー - アイルランド競走馬。1983年2月8日、覆面をつけた男らに誘拐される。翌日、犯人グループから200万ポンド(約7億円超)の身代金を要求する電話があり、拒否した所以後連絡は途絶え、行方不明になった。2000年に現場から160キロメートル離れた山中で、2つの弾痕がある馬の頭部が袋に入った状態で発見され、シャーガーのものではないかと騒ぎになったがDNA鑑定で無関係と判明。

植村直己 - 1984年2月12日 - 世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明。同年12月に公的に死亡と認定された。現在に至るまで遺体は発見されていない。

213:専守防衛さん
24/02/26 00:56:21.13 .net
夜狸猫事件 - 1987年に中国陝西省晶山村の住民約1000人が飼っていた動物に至るまで一晩で忽然と姿を消した。人民解放軍の関与があったという説もあるが真相は不明。
タラ・キャリコ失踪事件 - 1988年9月20日にアメリカ合衆国・ニューメキシコ州で大学へ向かう途中に失踪。

ネパール邦人女性失踪事件 - 1990年4月、ネパールを1人で旅行中だった当時29歳の女性が行方不明になった。失踪から約4ヶ月後本人を名乗る人物から電話がかかってきて泣きながら「だるまにされた、苦しい、悔しい」などと話してそのまま切れたとの情報がある。

カエル少年事件 - 1991年3月26日大韓民国大邱広域市達西区に住んでいた5人の小学生が失踪した事件である。事件発生から11年が経過した2002年9月に失踪小学生のものと思われる5体の白骨死体が臥竜山で発見された。
検死の結果、道に迷っての遭難や転落などの事故ではなく、何者かにより殺害された事件であることが判明した。しかし犯人が誰であるかは不明のまま、2006年3月25日に公訴時効が成立した。

ヴァンダ・ルトキエヴィチ - 1992年5月12日にカンチェンジュンガ頂上付近で失踪。
リッチー・ジェームス・エドワーズ - 1995年2月1日に宿泊先のホテルから失踪。

214:専守防衛さん
24/02/26 00:56:42.55 .net
デラウェア州知事女性秘書殺害事件 - 1996年、アメリカ合衆国・ウィルミントンで失踪、翌年死亡確認。
小西政継 - 1996年10月1日、マナスルに登頂後、消息を絶つ。現在に至るまで遺体は発見されていない。
ペルー早稲田大学探検部員殺害事件 - 1997年10月17日にアマゾン川の筏下りによる探検中に失踪。12月にペルーイキトスの東約200km離れたアマゾン川の陸軍監視所付近で遺体発見。ペルー国軍兵士による犯行だった。

ムハンマド・オマル - 2001年、ターリバーンの最高指導者。2013年に死亡したことが2年後の2015年に発表。(リンク先参照)

コロンビア邦人副社長誘拐事件 - コロンビアで矢崎総業の現地法人副社長が2001年2月に誘拐され失踪。2年9ヵ月後の2003年11月に遺体で発見。
リアナ・ワーナー失踪事件 - 2003年6月14日、5歳の少女が数メートル先の友人宅に行く途中で失踪。数多くの情報提供があるものの、手がかりすらほとんどないまま未解決。失踪直前の不可解な現象の数々も相まって今なお議論を呼んでいる。
ブリアンナ・メートランド失踪事件 - 2004年3月、仕事を終えた後に失踪。乗っていた車が廃屋に突っ込んだ状態で放置されていた。

215:専守防衛さん
24/02/26 00:57:01.10 .net
慶応大学生失踪事件 - 2006年9月2日にインドへ出発し、同年9月24日に帰国する予定だったが、連絡がつかず、失踪。
ジム・グレイ - 2007年1月28日、ファラロン諸島にヨットで向かう途中失踪。
KAZ II - 2007年4月14日 船に乗っていた乗組員が失踪。以後行方不明。

マデリン・マクカーン失踪事件 - 2007年5月3日、ポルトガルで失踪。

神田道夫 - 熱気球による冒険家。2008年2月1日に気球での太平洋横断に挑戦中に失踪。

カイロン・ホーマンの失踪 - 2010年6月4日に科学博覧会に出席した後、スカイライン小学校から失踪。2015年3月11日に遺体が発見されたが、現在も犯人は不明。

ハダ - 2010年12月10日、中国政府により妻子と共に拘束されて以降消息不明とされていたが、2014年12月10日、中国政府はハダが4年の追加刑期を終えて出所したと発表、後日解放後の本人映像がYouTubeに投稿され、実際に解放されたことが確認された。
マレーシア航空370便墜落事故 - 2014年3月8日、タイランド湾上空で消息を絶つ。2015年1月29日乗客の死亡認定がなされ、同年7月、機体の一部が発見された。

216:専守防衛さん
24/02/26 00:57:16.91 .net
2014年メキシコ・イグアラ市学生集団失踪事件 - 2014年9月26日、メキシコのイグアラ市の学生43人が失踪。地元政府が学生側の抗議活動を嫌い、警察・犯罪組織に拉致、殺害させていたことが判明した。
安田純平 - 2015年6月にシリアで失踪。3年4ヵ月後の2018年10月に解放された。
筑波大学生失踪事件(フランス語版) - 2016年12月に留学先のフランス・ブザンソンで失踪。交際相手だったチリ人男性に殺害されたとみられている。

217:専守防衛さん
24/02/26 00:58:43.52 .net
下山事件

218:専守防衛さん
24/02/26 00:58:55.63 .net
下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。

219:専守防衛さん
24/02/26 00:59:18.64 .net
日本の旗 日本 東京都足立区西綾瀬 常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間

220:専守防衛さん
24/02/26 00:59:31.99 .net
1949年(昭和24年)7月6日
午前0時30分過ぎ (JST(UTC+8)[注釈 1])

221:専守防衛さん
24/02/26 00:59:47.85 .net
事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。

1964年7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立し、未解決事件となった。

222:専守防衛さん
24/02/26 00:59:59.49 .net
事件の経過

223:専守防衛さん
24/02/26 01:00:22.64 .net
1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山は、7月5日朝8時20分(当時の日本には夏時間が導入されていたため、現在の7時20分に相当する。以降の時刻も同様)に出勤のため、大田区上池台の自宅を公用車のビュイックで出発した[1]。出勤途中、下山は運転手の大西に日本橋の三越に行くよう指示した[1]。三越に到着したものの開店前だったため、一旦国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行(現:三菱UFJ銀行)に立ち寄るなどした後で再度三越に戻った。そして9時37分頃、公用車から降りた下山は「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて三越に入り、そのまま消息を絶った[1]。

普段、下山は9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝秘書が玄関で出迎えていた。失踪当日は国鉄の人員整理を巡って緊張した状況にあり、9時から重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄本社内は大騒ぎとなり、警察に通報され失踪事件として捜査が開始された。

翌7月6日0時30分過ぎ、足立区綾瀬の常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間、東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で下山の轢死体が発見された。

224:専守防衛さん
24/02/26 01:00:33.60 .net
失踪後の足取り

225:専守防衛さん
24/02/26 01:00:51.82 .net
失踪後、下山らしき人物はまず三越店内の複数の場所および地下入口付近、地下の喫茶店で目撃され、次に営団地下鉄(現在の東京メトロ)銀座線の浅草行きの電車内で、下山に足を踏まれたという乗客に目撃された。三越店内では、「3 - 4人の男に取り囲まれて歩いて行った」との目撃証言もある。

11時13分頃に地下鉄を利用して三越を訪れた主婦の小川貞子は、三越の地下入口で3人の男と立ち話をしている下山を目撃している。3人のうちの1人は「身長150cmほどの小男、色の浅黒い逆三角形の顔で金縁メガネをかけていた」と証言している。

13時40分過ぎ、遺体発見地点に近い東武伊勢崎線五反野駅で下車した下山らしき人物は改札係に「この辺に旅館はありますか」と尋ねている。その後、14時から17時過ぎまで、駅員に教えられた同駅に程近い「末広旅館」に滞在し、18時頃から21時近くまでの間、五反野駅から南の遺体発見地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が下山によく似た人物の目撃証言が多数得られた。警視庁捜査一課は末広旅館での目撃証言により、ストレス等による発作的自殺説に傾いていった。

226:専守防衛さん
24/02/26 01:01:08.75 .net
しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中から旅館を出てトンネルと土手で目撃された18時40分まではメガネをかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言ではネクタイとメガネを外しており、遠視及び乱視でメガネを常にかけていた下山にしては不自然であることが指摘された。また、下山は色白で八の字眉であるのに対し、目撃された人物は日焼けして色が浅黒く脂ぎっており、頬骨が出ていて眉がつり上がっていたとの証言や、旅館滞在中に煙草を1本も吸っていないのも、煙草を好む下山にしてはおかしいとの指摘がある[2]。また、下山は東武鉄道の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に切符を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人と見るか、替え玉と見るかで意見が錯綜した。

227:専守防衛さん
24/02/26 01:01:24.22 .net
生体轢断カ死後轢断カ

228:専守防衛さん
24/02/26 01:01:44.89 .net
上にて、付近を0時20分頃に通過した田端発平行きの下り貨物第869列車(D51 651牽引)にひかれたことが判明[注釈 2][注釈 3]した。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山の遺体に認められた傷に生活反応が認められないことから、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。

229:専守防衛さん
24/02/26 01:01:56.75 .net
また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、轢断現場では血液がほとんど確認されず、失血死の可能性が指摘された。加えて、遺体の局部などの特定部位にのみ内出血などの生活反応を有す傷が認められたことから、該当部分に生前かなりの力が加えられたことが予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。

230:専守防衛さん
24/02/26 01:02:10.46 .net
一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、すでに現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの生活反応を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応がわずかなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。

さらに、慶応大学の中舘久平教授が生体轢断を主張した。自殺の根拠となる生体轢断と見るか、他殺の有力な根拠となる死後轢断[注釈 4]とするかで意見が対立した。1949年(昭和24年)8月30日には古畑、中舘、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)の3人の法医学者(ただし中館、小宮の両者は下山の遺体を実見していない)が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会や法医学界をも巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[4]。

231:専守防衛さん
24/02/26 01:02:24.06 .net
朝日新聞記者・矢田喜美雄

232:専守防衛さん
24/02/26 01:02:38.37 .net
朝日新聞記者の矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山のワイシャツや下着、靴下に大量の油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった[注釈 5]ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにもかかわらず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷および汚染状況などに、矢田と法医学教室が極めて不自然と判断した事実が浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山の監禁および殺害場所を特定する重要な手がかりになる可能性もあるとして注目された。

加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近にわずかな血痕を認めたとの情報を入手した。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施した[注釈 6]。轢断地点から上り方の枕木上に、わずかな血痕を発見した。

233:専守防衛さん
24/02/26 01:02:54.11 .net
その後、警視庁鑑識課を加えたうえで改めてルミノール検証が行われた結果、轢断地点から上り方の荒川鉄橋までの数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れていた。

さらに、その土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれる廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。しかし、警視庁捜査一課は釣り糸製造業の角田某という人物を探し出し、1946年2月から1948年5月まで所有者から小屋を借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着したと主張した。だがこれを重視した東京地検が本人の血液を採血し、東大法医教室で血液型を検査したところ、血液型は一致しなかった。[5]

234:専守防衛さん
24/02/26 01:03:04.64 .net
迷宮入り

235:専守防衛さん
24/02/26 01:03:18.54 .net
1949年(昭和24年)8月、捜査一課は本事件を自殺という形で決着させることとし[1]、捜査報告書の作成を始めていた。しかし、この決定にGHQからストップがかかり、自殺説の発表は見送られた。他方、他殺説を重視する捜査二課は、東京地検、東大裁判化学教室と連携してその後も植物油や染料の全国捜査を地道に続けていた。これに気付いた捜査一課は、情報入手のため塚本鑑識課長に東大裁判化学教室の秋谷教授を訪ねさせた。その結果、捜査二課が全刑事を動員して油と染料の捜査を行っていることを知り、この報告を聞いた堀崎捜査一課長は驚愕した。このまま二課の捜査が進むと、一課が決定した自殺説の決着が覆されるだけでなく捜査本部の解散もできなくなるため、大きな危機感を感じた堀崎は田中警視総監と坂本刑事部長を担ぎ、12月初めに捜査二課二係長の吉武辰雄警部を上野警察署次席に配転させたのを皮切りに、12月31日には捜査本部を解散、翌1950年(昭和25年)4月には二課の刑事たちのほとんどを都内23区の警察署に分散異動させるという強引な人事を断行させ、事実上二課の捜査を強制終了させた。

236:専守防衛さん
24/02/26 01:03:37.23 .net
1949年(昭和24年)12月15日、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に『文藝春秋』と『改造』誌上に掲載された[1]。警視庁記者クラブは、事件白書のようなものは記者クラブで共同発表すべきものとして抗議し、漏洩元を調査して回答せよと要求した。これに対し坂本刑事部長は「あれは正式なものではない、事実関係は調査の上回答する」とした。しかしその後も回答はなく、坂本は言を左右にして回答を避け続けたため、記者クラブは独自に調査を行い、次のような事実が判明した。

237:専守防衛さん
24/02/26 01:03:51.92 .net
本報告書が完成したのは12月はじめで、15日にはガリ版刷り五百枚の冊子二十部が完成した。総監や部長クラスには各一冊宛、残った部数が捜査一課の金庫にしまわれた。

捜査本部の看板も数日中に外されることになったものの、世間ではまだ殺人事件だと騒いでいた。捜査本部解散のあとではせっかくの報告書も世に出ぬままになる可能性がある。むしろ世論を「自殺」に落ち着けるには「極秘」の報告書を世に出したほうがいい。そう考えた男が捜査一課の幹部の中にいた。


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