【終戦の日】戦跡 本当は101回目の甲子園 昭和17年「幻の甲子園」 at NEWSPLUS
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18/08/15 09:05:31.33 CAP_USER9.net
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薄れる記憶 - 73 YEARS AFTER THE WAR -
戦争に翻弄された
「101回目」の甲子園
白球を追いかけた者なら誰もが憧れる甲子園。夏の大会は今年で100回目を迎えましたが、歴史上ただ1度だけ、公式には数えられていない「幻の甲子園」と呼ばれる大会があったこと、ご存じですか。
昭和17年(1942年)の大会で決勝の舞台に立ったキャッチャーが、ホームベースから見た景色とは。
76年ぶりの母校応援
ことしの夏の高校野球京都大会に、車いすで球場に向かう男性の姿がありました。原田清さん(91)です。
平安中学、今の龍谷大平安高校のキャッチャーとして「幻の甲子園」に出場し、準優勝を果たしました。
球場で母校の選手を応援するのはそのとき以来、初めてです。龍谷大平安のコーチに出迎えられ、現役の選手たちに「がんばってね」と声をかけました。
少しでも日陰で見てもらおうと選手の親たちが車椅子を持ち上げて、バックネット裏の日陰まで運んでくれました。
原田さんは、紺色に白地で平安のHの文字が入った母校の帽子を「年明けにね、姪にもらったんですわ。せっかくだから被ってこようと思ってね。今回初めて被ったんですわ」と、自慢げに見せてくれました。
「野球はいいね。雰囲気が良い」
原田さんは目を細めながら見守っていました。
京都市はこの日も38度以上の猛暑日だったため、原田さんは3回途中で球場をあとにしましたが、強力打線を誇る龍谷大平安が、得点を重ねる様子を見ることができました。
龍谷大平安はそのまま勝ち進み、100回目の夏の甲子園への切符を手にしました。
「鉄人」の引き合わせか
私(記者)が原田さんに出会ったきっかけは、平安OBで「鉄人」と呼ばれた元プロ野球選手、衣笠祥雄さんの訃報でした。
龍谷大平安高校を訪れて衣笠さんの思い出を探し、野球部100年記念誌をめくっていたところ、「幻の甲子園」に関する記述が目にとまったのです。
原田さんが出場した大会が「幻の甲子園」と呼ばれるのには理由があります。太平洋戦争中、夏の甲子園は中止されていましたが、昭和17年、甲子園を戦意高揚のために利用しようと、国が主催した大会が開かれました。
現在の大会とは主催者も開催の目的も異なるため、公式の記録としては残されていません。
私(記者)も高校球児でした。龍谷大平安のような全国区の高校ではありませんでしたが、甲子園出場を夢見て野球に青春をささげました。
「戦時中に開かれた大会はどんなものだったのだろう」
原田さんが京都府内の介護施設で暮らしていることがわかり、すぐに取材を申し込みました。
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