【生死】日本陽明学 【超脱】 at HISTORY
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779:日本@名無史さん
10/01/28 01:43:16
>>777>>778
にわか感覚で陽明学に触れるのは止めてね
気色悪い

780:日本@名無史さん
10/01/28 10:17:19
>>779
満街みな聖人
陽明学の門は誰にでも開かれています。

781:日本@名無史さん
10/01/28 10:39:39
NHKの大河ドラマ『龍馬伝』が始まり、坂本龍馬や明治維新に再びスポットが当たっているが、
今年生誕180周年、維新思想の先駆者として知られる吉田松陰の存在も忘れてはならない。
『獄(ひとや)に咲く花』(4月より全国公開。山口、福岡県のみ2月6日より先行公開)は、
30歳で没した吉田松陰の短い生涯をひとりの女囚の目を通して描いた作品だ。
1830年に長州藩士の家に生まれた松陰は、1853年にペリーが浦賀に来航すると、
龍馬と同じく西洋の先進文明に心を打たれる。翌年、再び来航したペリー艦隊に密航を企てるも、
計画は失敗し、故郷で幽閉の身に処される。そこで、私塾「松下村塾」を開き、木戸孝允、高杉晋作、
久坂玄瑞、伊藤博文らを育てていた松陰だが、1858年に幕府が日米修好通商条約を締結したことを知るや、
討幕を表明。老中首座の暗殺を計画し、野山獄に送られて処刑されてしまう。
いわゆる志なかばで散った不遇の幕末武士で、その先駆的な思想から、松陰は明治維新の精神的指導者、
理論者として多くの人々に影響を与えた。明治維新のスターである坂本龍馬に比べれば随分と地味な印象だが、
龍馬の活躍も松陰が作った下地があってのものだったのだ。
劇中ではそんな松陰が野山獄に収監されていた執念の日々が描かれる。表舞台で輝いた龍馬もいいが、
吉田松陰の“陰”での輝きにも注目だ。

URLリンク(www.trend-news.jp)

782:なくしてはならないもの
10/01/29 10:53:37
仁とは人の心です。
義とは人の道です。
その道を外れてしまう。
その心をなくしたことに気づかない。
悲しいことだ。
人は、飼い鳥や飼い犬がいなくなれば、これを探すではないか。
なのに、なくした心を探そうとはしない。
学問の道とはほかでもない。
それは、なくした心を取り戻すことなのだ。 孟子

783:日本@名無史さん
10/02/14 02:28:47


784:日本@名無史さん
10/03/13 19:41:00
正直心で良知を致すのみ

785:日本@名無史さん
10/03/14 03:57:49
問う、「良知は本来、中和なものであるのに、どうして人には過ぎたり及ばなかったりすることがあるのでしょうか」

陽明先生がいう、「中和だから、過不及がわかる」

786:日本@名無史さん
10/03/25 19:45:10
俺は王陽明先生に出会ったから自殺しない。

787:日本@名無史さん
10/04/09 01:10:53
心の鏡を曇らせないように努力したい

788:日本@名無史さん
10/04/09 20:33:29
「聖賢にも立派な功績をあげたいという意気込みがないわけではない。
ただ、それらは天理に合致したものであり、
そのかぎりにおいてはそのまま道であるから、
功績のための意気込みという言い方はあたらない」王陽明

789:日本@名無史さん
10/04/10 16:02:35
心が病むのは知と行が二つになってしまうからだろう
知行合一の教えを大切にしたい

790:日本@名無史さん
10/04/10 19:25:06
「動中に静あり 静中に動あり」 周濂渓

791:日本@名無史さん
10/04/10 19:36:15
だからこそ油断大敵

792:日本@名無史さん
10/04/10 19:52:48
そうしてこそ、
「動にも定まり 静にも定まる」 程明道

793:日本@名無史さん
10/04/10 19:58:49
「定なるものが心の本体であり、つまり天理であり、
道や静は、その定なるものが時々に応じてあらわす変化の局面である。」 王陽明

794:日本@名無史さん
10/04/11 11:38:31
>>793
訂正
×道や静
D動や静

795:日本@名無史さん
10/04/14 11:20:54
なぜ心は惑わされるのか
好悪の感情が内と外でバラバラになるからだろう
心の内と外を一つにしようと思う

796:日本@名無史さん
10/04/16 13:45:56
正直心も虚偽心もいらぬ
良知ひとつがあればいい

797:日本@名無史さん
10/04/17 07:43:42
自らを戒め、身を慎むことが基本
功夫(日々重ねる修業)の基本は静にある
しかし、動を嫌い静に執着してしまうと、
事が起きたときにオロオロして対処どころではなくなってしまう
もちろん動の局面を重視して戒め慎むことを忘れ、
むやみやたらと慎重さに欠ける行動発言の類をするのも執着だ

だから、とってつけたような善心も悪心もいらないと思う
やむにやまれずは二分されない本当の正直心。

798:日本@名無史さん
10/05/04 07:55:44
「未発の中がとりもなおさず良知であり、それは前後内外なく渾然一体としたものです。」王陽明

799:日本@名無史さん
10/05/16 11:05:23
『のちの人はまちがって、陽明学を頓悟超脱の教えのように思います。
頓悟は頓か(にわか)に悟るので、禅宗の本性を見とどけて仏になるのはそれであります。
超脱は修行努力などは飛びこえて進むことであります。
陽明学は、頓悟超脱とはこと変わって、克己格物の学で、現在の力量分限の及ぶところに随い、息づまるような奮闘を続けるのであります。
しかし、支那でも日本でも、時には「四句教」の第四、第三、第二を飛びこえて、
まっしぐらに第一句に飛びこみ、心の本尊様になりきった心地で勝手な行動をするものがある。
これを似而非なる慢心者というのであります。』陽明学講和(山田準 明徳出版社)からの引用

心の本体は無善無悪(第一句)無善無悪是心之体
意が動いたとき善悪が生じる(第二句)有善有悪是意之動
善を(先天的に)知り悪を(先天的に)知るのが良知(第三句)知善知悪是良知
善を行い悪を去るのが(心の)ことを正す修行(第四句)為善去悪是格物

本当にまっしぐらに第一句に飛びこめる天才ならば、山田準の批判は当たらないのだろう。
それは天泉橋の問答での王陽明の意見を見てもそうだし、
中央公論新社板の伝習録(上中下巻を一冊の収録)での下巻115での溝口雄三の解説を読んでもそう思う。
しかし王陽明が言うように、顔回、程明道のような天才たちですら第一句に飛びこむよなことはせずに、
着実に修行に努めたのだから、陽明学を学ぶにあたっては山田準の姿勢もまた正しいだろう


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